そしてもう、今日は東京に戻る日だった。
早朝、いるかの方が先に起きていたというだけで春海は驚いたが、二人は静かに、山本家の墓参を済ませた。
――お母さん。びっくりすると思うけど、これ、親父が仕掛けてきた話なんだ。まだ高校生だっていうのに、俺、結婚の約束をするよ。
そうでないとこいつ、一人でふらふら、ふらふらして……安心できないんだ、怖いんだ。まったく、お母さんとは正反対の女だよなあ。
それとも……それとも、俺が知らないだけで、お母さんもお父さんに対して、気が強かったり困らせたりしたのかな。
まあ、こいつには誰も敵わないと思うけどね……
でも……俺には、こいつしか……名前はいるかって言うんだけどさ、いるかしかいないんだ。
いるかだけなんだ。
お母さんもきっと、生きてくれてたら、いるかのこと面白がってくれたと思うんだよな。一度は会ったこともあるんだし。
……お母さん、息子にこんなこと言われても困るかもしれないけど……俺、好きなんだ。愛してるんだよ、この子のことを。
愛ってどんなものか、言葉ではうまく説明できないけど、これが多分、愛っていう気持ちだっていうことだけは分かる。
愛してるんだ。
自分でもどうにもならない、止められないっていうのが愛とか恋なんだろうか? 確かに、俺もいるかも、まだまだ子供だよ。でも大人じゃなきゃ愛が分からないなんて、俺はそんなことはないと思う。
不思議だよな。いるかも同じこと言ってたよ。
あの時のおばちゃんが春海のお母さんで、あたしと春海が……こういうことになるなんて、信じられないって。そう言ってた。
まあ、まだ正式にどうこう決まった訳じゃないけどね。親父にだって、少しは……かなり言いたいこともあるしな……
でも俺は、もう決めたから。
だから連れてきたんだ、俺とずっといっしょに生きてくれる子を。
お母さんに見せたかったから。
そうそう、徹もさ……あいつ、あの年でもう彼女がいるんだぜ。それにも驚くだろ?
「……春海?」
いるかが声を掛けるまで、春海はずっと墓を見つめていた。
「――ああ」
「まだ話が長くなる? 久しぶりだもんね、お母さんと話すの」
いるかが笑いながら聞くと、春海は苦笑して立ち上がった。
「もう終わったよ。……おまえは何て?」
「あたしはね、ええと。『初めまして、お久しぶりです。如月いるかといいます……あたしのこと覚えてますか?』……って」
「はは」
朝の静かな空気の中で、春海はおかしそうに微笑んだ。
「変な日本語だなあ」
「だって、しょうがないじゃん。あたし、名前も言わなかったし」
いるかが頬を膨らませた。
「お母さんだって、あたしがあの時の子だなんて分かんないよ」
「俺が説明したから、大丈夫だって」
「そうかなあ……?」
二人は墓を後にして、如月家に向かって歩き始める。
冬の朝ではあったけれども、陽は眩しかった。
見慣れた倉鹿の光景が、朝の色に包まれていく。
「いい天気になるね、今日も。寒いけど」
「おまえ、眠いだろ? 早起きしたんだし……帰ったら少し寝るか?」
「もう寝る暇ないよ。じいちゃんとおばちゃんが待ってるし」
「……」
春海は笑っただけで、何も言わなかった。
いるかも黙って歩いていた。
やがて春海が、いるかの手をそっと握った。
「――ありがとう。きっと、喜んでくれたと思う」
「……」
ふたつの白い息が朝の空に舞い、ひとつになって溶けた。
◇
結局、春海が強く勧めるので、いるかは祖父や叔母との朝食のあと、少しだけ横になった。
寝るのと食べるのがおまえの基本なんだから、と春海は言い、いるかも眠気があったのは本当だったので、おとなしく床についた。
春海はその間、自分に宛がわれた部屋で荷物をまとめ――と言っても、もともと荷物を散らかすようなこともない春海には、十分も掛からなかったのだが――帰り支度を整えた。
いるかが起きれば、一度外に出て友人たちと会い、そして今度は荷物を持ってこの家を出るのだ。
「……」
さすがに慌しいな、と春海は思った。
今度帰ってくる時はもっとゆっくりしたいところだが、どのみち、月曜日には必ず学校に戻らなければいけない高校生には、そんな余裕などありはしない。
冬休みがあるとは言っても、お互い部活もあるし……と春海が考え出した時、障子の向こうから物音と人の気配がした。
春海はあまり表情を変えなかった――いずれ、こうなると彼は予想していたのだ。
「山本くん。――少し、いいかね?」
「はい。どうぞ、院長先生」
故郷に帰ること。
それは取りも直さず、少年が亡き母に、愛する少女を紹介する時間であったし、少女の祖父と対峙しなければいけない時でもあったのだから。
「君に、謝らねばならんと思ってな」
如月上野介はそう言って、かつての最大の気に入りだった生徒会長を見た。
「事の顛末を聞く限り、息子――鉄之介が、もう少し段取り良く話をしていれば、いるかが騒動を起こすこともなかったじゃろうて」
「……」
「しかも、いるかを新潟くんだりまで探しに行ってくれたのは、親でなくて君だったと言うんじゃ。息子が息子なら孫も孫……祖父としては一言、謝りたくもなる」
「俺がそうしたかったから、したんです」
春海ははっきりと言った。
「いるかがいつ帰ってくるのか、どこに行ったのかも分からないまま、待ってなんかいられなかったんです。――俺が」
「……」
上野介は、じっと春海を見た。その目は真っ直ぐではあったが厳しくはない。春海も、力を尽くしたのちに神の審判を待つ人のように、ただ黙っていた。身じろぎもしなかった。
上野介の目には、社会的にはまだまだ無力ながらも、成長し続け青年の姿になろうとしている少年が映っている。
その少年は、上野介のただ一人の孫娘と恋をした。
引き取る前に祖父が危惧していたように、気力がないばかりに若い時代を無駄にする、ということもなく、孫娘は倉鹿で思いきり生きた。
その生命力を一気に爆発させたかのように。
少女の熱気に巻き込まれた形で少しずつ変わっていった優等生の少年は、今、自分の意思で彼女を選んだのだと言外に告げたのだ。
「……祖父のわしが言うのも、何じゃが」
上野介は、ゆっくり笑い出した。春海が驚いたようにまばたきをした。
「いるかは優等生でもなければ、出来がとても良いとも言いかねる。ただ――あの子は、君と会って変わったんじゃよ」
「……」
「無論、修学院の皆と出会って変わったということでもあるがな。……それでも、君がいなければあの子は、人生でとても大事なことをまだ知らんままじゃった……」
「……」
「君があの子を変えたのだから、春海くん」
初めて、院長が自分の名前を呼んだことだけでも驚いた春海だが、その上野介が前屈みになり手をつく姿勢になったので、ますます仰天して何か言いかけた。
「院長……」
「ただの祖父として、いるかを見つけてくれた君に感謝を述べるまでじゃ。大袈裟でも何でもなかろう」
「ちょっと待って下さい、俺は……俺こそ……」
「何を言っとる。こういうけじめは大事じゃぞ。君はもう、わしにとっては単なる生徒ではない」
「……」
春海も思わず、同じように手をついた。
人の一生には何度か、必ずどこかで、悲劇や喜劇の様式美とも言える場面が訪れる。この場合、年齢が若くともそれは感じ取れるものだ。
今の春海は要するに、少女の親と対峙するより先に、祖父とそういう劇を演じる羽目になってしまったということだったのだろう。
老人と少年は同じ恰好をして、向かい合っていた。
しかし、当人たちには『演じている』という意識など、当たり前だが欠片もない。彼らには本音しかない。
(だからこそ、傍目から見れば悲劇であり喜劇であるのだ)
「あれでも、わしには可愛い孫じゃ。――いるかを宜しく頼む。春海くん」
「――はい」
深呼吸をしてから、春海は顔を上げてそう答えた。
「はい、院長先生。……俺こそ、院長に感謝しています。本当に……」
「……いるかは、果報者じゃのう」
上野介はゆったりと笑い、春海は少し照れたように咳き込んだ。
それは、院長と生徒という関係ではない、初めての空気であった。
*****
後編に続きます。
あああああああー!
去年の5月からずっとずっとずーーーーーっと溜め込んでいた「家出その後シリーズ」、ようやくスタート地点まで行けそうだ……
そう、私の中では「家出のあと、倉鹿に一回帰る」(もちろん架空の設定ですけど)がスタート地点だったので、大雑把な筋は出来ていたものの、なかなか文章にならないので、熟成という訳でもないんですけど敢えて「寝かせて」おいたんです。
書ける時になったら書けるだろう、と。
「家路(シリーズ2)」まではかなり早い時期に書いてしまったので、ここ(=今度は二人で倉鹿をあとにする)に至らなければ見合いも始まらないし春海の耐久レースも始まらないという、個人的にかなりキツい地点でありました……
後編では倉鹿をあとにする二人、というところで終わりますが、シリーズ5からは縁談本格化の話になります。
ああ、これがまた書くのがきつい。
でもここを書かないと、私の最大のお楽しみである春海耐久が書けない。
ジレンマです。
自分メモ
このシリーズ、ナンバリングがおかしいことに気づきました……
「ガールズ・トーク」を前編後編で「1」と「2」にしてしまっていた……
家出その後シリーズ1 ガールズ・トーク(前編後編)
シリーズ2 家路
シリーズ3 少年たちよ我に返れ
シリーズ4 はじまりの汽笛(前編後編)
ナンバリングを修正します。
[14回]