目を覚ましたいるかが、半分ぼうっとした顔のまま居間へ行くと、祖父と春海が茶を飲んでいるところだった。
「そろそろ起こしに行こうかと思ってた」
そう言いながら春海は、居間の壁時計を見上げる。
「ちょうどいい時間だな。荷物はちゃんと片付いてんのか?」
「うん。……っていうか、ほら、荷物あんまり持ってきてないし」
「すぐに出られるようにしとけよ。電車の時間があるから」
「はーい、はい……」
答えながら、いるかはふと気づいた。
祖父の目が笑っている。
いるかは孫であるから、厳しい教育者ではない、祖父としてのそういう表情はよく知っている。しかし今、笑みを向けている相手は孫娘ではない。
「……」
「どうしたんだよ?」
春海が目の前に立って、覗き込んできた。
「え、ううん。何でもない。みんな、修学院前で待ってるんだよね」
「そう。あいつら、駅にも送りに行くって言ってるから」
「そうなんだあ」
「いるか、起きたのかい。あんたたち、今から出かけるにしても、一回戻っては来るんだろ。昼ごはんはどうするの」
台所から叔母が聞きにきた。いるかと春海は顔を見合わせた。
「帰ってきて、ごはん食べる時間ぐらいは、あるよね?」
「電車が一時半だから……今からあいつらと会うのが一時間ぐらいとして……まあ、大丈夫だろ。じゃあ、すみませんが、用意しておいていただけますか」
時計はそろそろ、十一時の少し前を指していた。
「はいはい。そうと決まれば、さっさと遊びに行っといで」
いつも粋な言葉使いの叔母が、片目をつぶって二人に言った。
「おいしいもの作って待ってるからね。――しばらくあんたたち、こっちには帰って来られないんだろうし」
「ありがと、おばちゃん」
「……」
屈託のない笑顔を見せる姪と、隣の春海を交互に見つめ、叔母はふいに、感に堪えないと言った口調になった。
「……この子がねえ、まあ! こんな早く、ねえ!」
「……」
「こんないい男を見つけるなんてね……ねえ、じいちゃん。まったく、驚くじゃないのさ」
「ふむ」
「お、おばちゃん、おばちゃんったら」
いるかがさっそく、真っ赤になって遮った。
「あ、あたし、今すぐ、け……ケッコンとかする訳じゃない、からさ……だからその……そんな……」
「……」
いるかが助けを求めようと隣を見上げても、叔母の評するところの「いい男」も、同じように赤くなって困った顔をしているのだった。
だから最初から分かってたんだ、もう仕方ないと春海は諦めたように笑い、いるかはまだ赤い顔のまま、修学院への道を歩いた。
「そりゃ、皆にとっちゃ面白いに決まってるさ。普通じゃないだろ。色々と」
「面白い……のかなあ……?」
「院長と叔母さんにとっては、もっと身近なことだろ。おまえは孫だし姪なんだから。俺にしてみれば、あんな風に喜んでくれるってのは有難いよ。ま、ちょっと居たたまれないっていうのも本当だけど」
「……」
「……俺もさ、倉鹿に帰ってきて、考えることがたくさんあるよな」
ふっと、春海が呟いた。
先を歩いていたいるかが、その口調に振り返る。
「将来のこととかさ」
「将来……」
「具体的に言ったら、大学とか……大学で何をするのか、つまりは仕事のことだけど……」
今までだって、何も考えていない訳じゃなかったんだけど、と春海は言う。
「だけど、やっぱりな……何と言うか、漠然としてたよな。今と比べると」
「――あたし、何も考えてない」
少し悄然として、いるかは言った。
「あたし、大学のことなんか考えてなかったよ。……そもそも、あたし、大学に行けるのかなあ? 行っても、何をしたいのか分かんないし……」
「……」
立ち止まってしまったいるかの背を、春海はわざと強く叩いた。
「ちょっとお、春海!」
「今から考えりゃいいんだよ、それで十分間に合う」
「……」
「それにさ、おまえ。大学とか考えるより先に、家出で遅れた勉強のこと考えろ。今はそれだけでいいから」
「うう……そうだったあ……それがあったんだあ」
「そうなんだよ。東京戻ったら、当分はスパルタだからな」
「ええっ……」
二人がそんな風にして、未来のことや目先のことをとりとめもなく話していると、
「春海! いるか!」
「いるかちゃん! 山本くん!」
と、異口同音に彼らを呼ぶ声がした。
いるかは途端に、ぱっと顔を明るくする。
「わあ、みんな!」
懐かしい友人たちが――大勢で――駆け寄ってきたのだ。
進、一馬、兵衛。
銀子と杏子。博美と湊。
東京と倉鹿で離れた今も、懐かしく頼もしい友人たち。
それは、春海といるか共通の財産とも言うべきものであった。春海にとっては生まれ故郷の記憶であり、いるかにとっては人生を変えた場所での出会いの賜物なのだ。
どんなにからかわれても笑われても、それはただ友情から来る気安さであった。むしろ、春海もいるかも、家出から縁談に発展した今回の騒動のことを友人たちに一切話題にされなければ、首を傾げたことだろう。
中学時代によく座り込んで話した駄菓子屋のベンチに、総勢九人の若者は集っていた。
「あんたたち、冬休みとか春休みにもっと長く帰ってくればいいのに」
「こないだの夏休みは、会えたのは会えたけど、駅伝があんなことになったしね」
銀子、杏子が交互にそう言う。
「昨日だって、試合前のミーティングがあったから、あたしとお杏は外せなかったんだよ。何せ、あたしたちが作った部だからね」
「そうだったね。高等部には女子サッカー部がなかったなんて、あたしも東京で聞いてびっくりしたよ」
「ま、見といで。兄貴にも高等部コーチを押し付けたし、すぐに里見と試合ができるまでになってやるから」
杏子がにやりと笑い、相棒の銀子と顔を見合わせた。
「里見が強豪なのは知ってるけどね。全国ベスト4だもんなあ」
「でも、去年優勝したのは銀子たちじゃん。玉子が――ああ、里見の一年生のストライカーなんだけどさ――あたしが修学院サッカー部だって聞いて、驚いてたもん」
「山本くんは、部活じゃもう剣道やってないんだってね?」
湊が思い出したように言うと、春海は頷いた。
「さすがに高校で、クラブを掛け持ちってのもな。部活じゃないと出来ないって言ったら、やっぱり人数の要る野球の方だし」
「それは俺たちも同じだしな」
一馬が、兵衛を振り返った。
「俺たちは逆に、高校では剣道を選んだからな。ま、兵衛は柔道部にも出入りしてるし、俺もホッケーはまたどっかでやるつもりだよ」
話題は尽きなかった。
友人たちは意図的なのかそうでないのか、はたまた、前夜にそれぞれ事情聴取を行っていたからなのか、家出のことについては特に触れて来ようとしない。前夜に会っていないので、詳しい話を知らないはずの銀子と杏子もだった。
春海は少し怪訝にも思ったが、いるかはもう目の前の話に夢中になっていて、それを不思議と感じている気配もない。
しかし、春海といるかが如月邸に戻って昼食をとって、それから皆で駅に向かおうと話し合い、とりあえず一旦、別れようとした時だった。
「――そうか。今度会う時は、あんたたち、婚約者になってるんだよね」
ごく自然に、別にからかっているという様子でもなく、杏子が呟いたのだった。
一瞬にして表情の変わった悪友たちの視線に冷や汗をかきながら、いるかと春海は相変わらず、「まだ正式なことは決まっていない」だの「東京に戻って親と話し合ってからじゃないと、詳しいことまでは分からない」だのと言い訳を繰り返した。
自分たちが倉鹿を離れてそろそろ半年、一年になろうともいうのに、いまだ友人たちの話題の中心になっているのかもしれない、四六時中ではなかろうが――鹿鳴会会長としての派手な実績がこんな風に跳ね返ってくるなんて――と、二人は痛感したのだった。
叔母の心づくしの昼食を有難く頂き、姪の食欲については知り尽くしている叔母が「電車で食べなさい」と持たせてくれた弁当を持って、二人は如月院長宅を後にした。
叔母も祖父も、駅までは来なかったが、祖父の場合は、以前のように寂しいからという理由でもなく、叔母は単に「あたしが行かなくても友達が来るんだろ、大勢」と言うだけのことだった。
「元気でね、じいちゃんもおばちゃんも」
「あんたたちもね」
「また来るからさ。冬休みはどうなるかなあ……ちょっとまだ分かんないんだけどね」
叔母と姪が話している間、上野介は、春海を見上げていた。
「気をつけてな、春海くん」
「はい」
春海も上野介を見て、微笑んだ。
「院長先生も、お体には十分気をつけて下さい。叔母さんも」
「いるかを頼むわよ、春海くん」
叔母も、頼もしそうに背の高い少年を見上げて言った。
「勝手にふらふらしないように、首に縄つけときなさいね」
「ははは……」
「何それ。あたし、猫とか犬……?」
不満そうにいるかが拗ねた声を出したが、実際、そう揶揄されても仕方のないことをしたのだと、彼女は諦めたようにため息をついた。
二人が視界から消えて、叔母はすぐに家の中に入ったが、上野介はしばらくそこに佇んでいた。
彼の目には恐らく、愛しい孫と、その彼女に寄り添う少年の、倉鹿での色々な場面が浮かんでいたのだろう。
それはとても、穏やかな表情だった。
◇
そして、最後の場面は駅のホームだった。
去年の夏のホーム。泣きながら手を離したホーム。
二人を引き裂いた汽笛。
遠く続く電車の軌道。少年の目には果てしないと思われた東京へのレール。今は、いるかと春海は同じ場所を目指す。
二人で「帰る」のだ。
倉鹿へは「帰る」と言う。そして東京へも二人で帰る――
「じゃあ、またな」
「手紙くれよ」
「いるかちゃん、また帰ってきてね」
「電話ちょうだいね」
電車に乗り込もうとする春海に、進が一言。
「頑張れよ、春海」
「……」
何のことだ、何を頑張るんだ、と春海は心中で激しく問い質したが、もちろん口にはしない。
そのうちに、駅員がホイッスルを鳴らした。
電車が音を立て始める。ドアが閉まる音、発車する音――駅につきものの情景が繰り広げられる。
「二人とも、元気でな!」
「みんなも元気でね――!」
いるかが車窓から叫び、友人たちの姿が見えなくなる。
「……ああ、見えなくなっちゃった」
「……」
「やっぱり、もっとゆっくりしたいよね。今度は……」
「いるか」
春海の声が、ふいに真剣なものになった。
いるかは驚いて、隣に座っている春海を見上げた。
「え?」
「東京に着く前に、聞いていいか」
「え……?」
ガタン、ゴトンと響く音の中。
春海はしばらく黙っていたが、まっすぐにいるかを見て言った。
「おまえはおまえのお父さんに、俺は親父に、『見合いなんかしたくないから断る』って言えるんだ。親が、大人の都合で勧めるからって、黙って言いなりになる必要はない――と、俺は思ってる。この縁談がなかったことになっても、それは親の都合であって、俺とおまえには関係ない話だしな」
「……」
「だけど……俺は……」
「……」
今は、二人で東京に戻る電車。
同じ場所に帰るのだ。もう、去年のように泣くこともない。
「あたし……」
「……」
「あたしは、ね……」
いるかは少し、はにかんだ笑顔で春海を見た。その表情には、恥じらいは隠されていただろうが、とまどいやためらいは見えなかった。――少なくとも、春海にはそう見えた。
「あたし……あたしも、これでも色んなこと考えててね。……父ちゃんの都合とか、春海のお父さんのこととか、確かに、大人の面倒な事情がこれからずっと関わってくるんだなあって、そう思ったけど」
「……」
「でも、そういうこと、全部分かってて……分かった上で、あたし」
「……」
「あたしは、この話を……受ける」
「……」
「だって……春海だから。もしも春海じゃなかったら、また家出してたけどね。あはは……」
「――バカ」
春海はそれだけ呟いて、隣に座るいるかを引き寄せ、抱きしめた。
この車両にはほとんど乗客がいなかったのを知っていたので、いるかも抵抗しようとはしなかった。
とても静かな抱擁だった。春海の背中に、いるかはそっと腕を回した。
「相手は俺なんだから、家出する必要ないだろ。もう勝手にどっか行くな……頼むから。でないと、叔母さんの言う通り首に縄つけちまうぞ」
「……うん」
「……」
何と言えばいいのか分からない――うまく言えない。ただ、『君が愛しい』ということだけを知ってほしいんだと言いたげに、春海は低く囁いた。
「……おまえが、好きだよ。親父が何を考えてようと、そんなことどうでもいいぐらいに」
優しい声が、いるかの目を潤ませた。
「あ……あたしも、父ちゃんが何考えてても、どうでもいい。春海……ありがとうね」
「……俺も、ありがとう」
腕を解く一瞬、春海の唇がいるかの額に触れる。
そして彼は――彼も少しだけ、目が霞んでいたのかもしれなかった――いるかをじっと見つめた。
「良かった……おまえがそう言ってくれて。これだけは、ちゃんと確かめておきたかったんだよ。断ろうと思えば断れる話だから」
「――でもね、あたし」
深く息をついて、少し落ち着いたらしいいるかが、春海に体を寄せてきて目を閉じる。
「父ちゃんとは多分、帰って話をしたらケンカするよ。断らないけど、言いたいことはいっぱいあるもん」
「それは、俺も同じだな」
笑いながら春海も同意した。
「でも……まあ、それはそれとして。今は、ちょっと眠ろうか。おまえ、やっぱりまだ眠いんだろ……?」
春海に寄り添う体勢で、いるかは気持ち良さそうに目を閉じている。やがて、寝息が聞こえ始めるのだろう。
規則正しい電車の振動は、まるでゆりかごのようにも思える。
そして、春海もいるかの手を握ったまま、瞼を閉じた。
これからどこへ?
明日はどこへ向かうのか。
明日は、一人ではなく、二人ではじまる。
いつかの夏の終わりに、泣きながら旅立った少女と、泣きながら見送った少年は、今は寄り添って同じ未来に向かっていた。
これからどうなるのか、彼らにはまだ分からない。
二人でいても泣くかもしれない。壁にぶつかるかもしれない、もしかしたら、壊れてしまうかもしれない。
それでも、恐怖に怯えて前に進めない人間にはなりたくないと、二人は思っていたのかもしれない。
電車は東京へ向かっている。
これから新しく始まる、新しい場面の幕開けが二人を待ち受けている。
今、後にした倉鹿での汽笛が、その合図のように。
「昨日も、今日も……明日もいっしょだよ。春海」
心地よい眠気の中、一瞬だけ目を覚ましたいるかがそう言った。
眠っているはずの春海の手に力がこもり、いるかの指を優しく握り返した。
*****
Never Ending Journey/Cocco
どうやらこの話が、「Never Ending JourneyⅡ」ということになりそうです。
[16回]