[30回]
十六歳の夏が終わろうとしている。
去年と同じで、何かと騒がしい夏だった。一年前に感じた痛み……胸を引き裂かれそうな別れの痛みではなかったにせよ、多くのことがありすぎた。
彼女の心は揺れ動いた。
そして彼も、大きく揺らいだ。
彼女の目に映る彼は少しだけ眉をひそめて、その目は強張っていたけれど言葉はあくまでも静かだった。落ち着いていて、そして冷たかった。
彼女は誰も見ていないところでは泣いたが、彼の前では涙を見せなかった。
彼女がため息を何度もついては時計を見つめていたその瞬間、彼が友人に激烈な戦いを挑んでいたことも知らずに。
そして、戦いの果ての夜明けに彼は誓う。
変わらない心を彼女に誓う。それはまるで、遠い未来に訪れるはずの神聖な儀式のように。
だから彼女は走ることができた。
友人を失うこともなく、恋が壊れることもなく、復讐の前にも彼女は無敵で夏を走り抜けた。
何も怖くないと彼女は思った――この夏は、最後の最後に異世界へ向かう列車に乗ることはないのだから。
重病人じゃないんだから大丈夫、と春海は言う。
「見ろよ、もうだいぶ引いてきただろ?」
「でも、やっぱり痛そう……」
「……まあ、仕方ない。これだけ痕が残るぐらいだからな」
「休み前はいろいろ計画立ててたのに、駅伝のあとは何にもできなくなっちゃったね。でも、学校が始まる前に元気になってよかった」
海の見える駅、ホームのベンチ。
春海は、いるかを見つめた。
「? どしたの?」
「なんで、夏になると騒がしくなるんだろうな……って思って」
「さわがしい……?」
「そう。みんなで騒いで、怒ったり笑ったりしてさ……それで、大騒ぎのあとにいきなり静かになる」
「……」
「昨日までここにいたのに……嘘みたいだって思ったな。去年は」
「……」
電車がホームに入ってきて、しばらくして発車していく。その光景は一年中同じものなのに、今日の二人には特別に映るのだった。
いるかが、小さく身動ぎをした。
「電車……」
「うん?」
「やっぱり今日も、電車に乗っちゃうんだね。あたし」
ベンチから立ち上がって、いるかは笑う。
「しょうがないよね。ここまでだって電車で来たんだし……乗らなきゃ家に帰れないもんね」
今度は春海が黙り込んで――それから、小さく、ひとこと。
「帰るなよ」
レールの軋む音がまだかすかに聞こえる。いるかは首を傾げて、おかしな表情をしてみせた。
「早く帰らなきゃ。だって、宿題まだ残ってるし……へへ」
「……」
小さく息をついて、春海も立ち上がった。
いるかの手を取って、自分のてのひらで包み込む。
「ちゃんと、家に帰れよ。俺の知らないどこかじゃなくて」
「……うん」
「明日も、ちゃんと学校に来いよ」
「うん」
「よし。――それなら、次の電車に乗ることを許可してやる」
「ええっ? 許可がなかったら乗っちゃだめなの?」
「そう、今日だけはな」
春海はえらそうな口をきき、わざとらしく腰に手を当てた。いるかも笑って、夕暮れの空を見上げる。
夏の終わりを、ひとりきりではなく二人で見届ける……
「――もう、明日から九月なんだよね」
それは、八月最後の一日。
少しだけ物悲しい匂いのする、夏の終わり。
まだ怪我の痕が残る春海は、一年前に消えてしまった少女の幻影を追いかけてたどり着いたこの場所で、幻ではない確かなぬくもりを握り締めた。
「ねえ、春海」
なぜか懐かしいような声音で、いるかが呟く。
東京にいる今、二人は清く大きな川で泳げない。水に流れる、水の流れる八月の終わりを出会った場所で過ごせない。
けれど、思い出はいつも……いつまでも鮮やかだ。
「きっと咲いてるね。芙蓉の花」
望郷の思いを胸に抱いて、彼と彼女は夏を見送った。