期末試験の最中だったが、情報を聞きつけた一馬がいつものメンバーに声を掛けた。
「気分転換に、夜ちょっとだけ外に出てみねえか?」
他の生徒が下校したあとの三年雪組には、鹿鳴会の五人、湊と博美、そして銀子と杏子が集まっている。
「どこ行くの?」
「明日もテストなのに?」
「まさか、夜遊びじゃねえだろうな」
進が笑いながら言う。一馬は気取った顔をして、人差し指を横に振ってみせた。
「見るなら今がいちばんいいと思ってさ。――近所のじいちゃん、ばあちゃんたちが話してるのを聞いたんだ。蛍だよ」
倉鹿市には鹿々川という、比較的大きな川がある。毎年そこで水泳大会が行われるほどなので、水質にも恵まれている。ということは、この時期に夏虫が見物できる環境でもあったのだ。
「八時から九時あたりが見頃だから、まあ一時間ぐらいか。すぐそこだし、どう?」
「そうかあ、蛍の時期なんだ。見たいね」
博美が言うと、皆も一斉に同意した。――春海はその時、何気なくいるかに目を向けた。
彼女は奇妙にぼんやりしていて、いつもなら即座に反応するであろう催し物にも関心が持てないようである。
この数週間、期末テスト対策で春海の指導のもと、暗記と詰め込みに追われていたのだから無理もないか……と、彼は結論づけた。
残りはあと二日だったが、彼女の鬼門とも言える数学が残っているのだ。
「じゃあ、七時半頃に集合してさ――川沿いに歩いてって……」
「よし。帰りは、俺たちが女子を家まで送ってけばいいな」
打ち合わせが終わり、皆が教室を出て行く。春海はいるかの顔を覗き込んだ。
「――え? どしたの?」
「詰め込みすぎで、パンクしそうな顔してるぜ。……テストが終わらないうちは、蛍見物なんて気分になれない?」
「ううん、そんなことないよ。ほたる、見たい。春海のおかげで、数学もだいぶ分かってきたし――その、あの……何が分からないかってことが分かるようになった」
いるかは照れた顔で、全校一の秀才に白状した。
「三年生になって、まだこんなだもん。春海が呆れるのも当然だよね」
「まあ、そう言うな。三年になってから相当頑張ってるよ、おまえ」
「そうかな……」
「そう。だからさ、一時だけじゃなくてずっと続けないとな。うちには高等部があるって言っても、受験と変わらないテストが待ってる訳だし」
二人は、皆から少し遅れて歩いていた。いるかの顔が一瞬――いつもは鋭いはずの、春海の目にも捉えられなかった――悲しげに歪む。
「そうなんだよねえ。あたし、今度こそ自力で頑張らないと。ほんとなら転校するときに編入試験受けなきゃいけないのに、じいちゃんが無理やり入れてくれちゃったから」
じじばかだよね、といるかが笑った。
春海も笑う。彼はまだ、何も気づかなかった。
一馬、進と兵衛が振り返り、早く来いよと会長二人を急かす。七月に入ったばかりの、眩しい昼下がりだった。
◇
そして、夏の夕べ。
古都であり城下町ではあるが、全体として見ると倉鹿市は小規模な町だった。たまに大きな荷物を抱えて、ガイドブックや案内地図などを片手に歩く観光客を見かける程度だ。――桜の時期だけは、それなりに賑やかになるのだが。
蛍鑑賞も、地元の特権とばかりに市民が散歩をしながら楽しむことができた。
ちろちろと光りながら踊る蛍の群れに、試験で頭がいっぱいの中学生たちはしばし現実を忘れて見惚れていた。
「わあ、飛んでる。きれい」
「もう七月だし、そろそろ終わりなのかな。見られてよかったね」
「な? 来てみてよかっただろ」
「星もきれいだねえ」
ふと、杏子が地上の光から天の光に目を移した。
「倉鹿だから、散歩がてらこんな景色が見られるんだよね。東京に行ってみて初めて、それが分かったよ」
「でも、東京にだって蛍はいるだろ?」
進が杏子に尋ねるが、杏子は首を振った。
「そりゃ、いない訳じゃないだろうけど……東京は東京でも、ちょっと引っ込んだ場所じゃないかな。都心じゃあ、散歩ついでに見物なんて出来るかどうか」
「いるかなら知ってんじゃないの?――いるか?」
銀子に呼ばれて、いるかは首を傾げた。
「さあ? あたしもわかんない。ちゃんと見たことないから」
隣の春海を見上げて――そして、いるかの瞳は彼をすり抜けて夜空を仰いだ。
「でもね、東京じゃ星があんまり見えないよ。倉鹿はいつもすごくきれいだから……あたしもこの間、合宿で自分ちに帰った時に初めて分かったんだ。ね、お杏」
東京に住んだ経験のある杏子に、いるかは笑ってみせた。
「いつの間にか、それが当たり前って思ってたからさ。東京の空見てびっくりしちゃった」
「確かにね」
肩をすくめて、杏子もいるかの言葉に頷いた。
「何だかんだあったけど、まあ……倉鹿も悪いとこじゃないよ」
倉鹿へ戻ってきた――戻らざるを得なかった伊勢兄妹の事情が事情だっただけに、そこに集う皆は少し黙り込んだ。杏子はそれに気づき、ふざけた口調で悪くない、悪くない――と繰り返しながら歩き出す。
銀子が気遣わしげに相棒と並んで歩いていたが、そのうち、彼女たちは何事かを話しては笑い合うようになった。帰郷してしばらくは荒れ狂っていた杏子だが、今では兄の受けた仕打ちや不運、悲しみ、兄妹への試練も受け入れて、愛すべき仲間のいる倉鹿に溶け込んでいた。
「……えらいね」
呟くように、いるかが言う。春海がそれを聞きとがめた。
「何が? 伊勢のことか」
「うん。お杏って、えらいね。……ここに戻ってくるの、嫌だったのに。お兄さんがあんなことになって、どうしようもなくって……それでも、今はちゃんと笑ってる」
「そうだな……」
おまえの力だって少なからず影響したはずだぞ、と春海は心の中で呟いた。女子サッカー部解散という最悪の事態にも諦めず、泣きながらも奮闘して得たものが勝利、そして友情と信頼。
「えらいよね」
「……」
そこで初めて、春海は違和感を覚えるに至った。
ちらりと横目で窺うと、いるかはまだ蛍ではなく空の星を追っている。
「ほんと、倉鹿は星がきれいだなあ……」
なぜ彼女は、放心したように空を眺めているのだろう。
暑さと連日の試験勉強で、さすがの体力自慢も効かなくなっているのだろうか?
「おまえ、もう夏バテなのか? ちゃんと食ってるか」
「あたしが夏バテ? まさかあ」
すぐ否定しながら、いるかが手を振った。
「勉強の間に、ちゃんと食べてるよ。でも、勉強しながら食べるのだけはやめた。眠くなるから」
「それなら、いいけど」
「テスト終わったら、どこのクラブも試合が多くなるからみんな忙しくなるね」
春海の野球でしょ、サッカーの――男子の試合、あたしたちも試合。ソフトもあるし、他にも出てって頼まれたクラブがいっぱいあるもん。夏バテなんかしてらんないよ、といるかは言う。
半袖を肩まで捲り、腕こぶしを作りながら笑った。――そして、もう片方の手首を春海に掴まれて、闇の中でひっそり赤くなった。
春海の手は、滑り降りるようにして彼女のちいさな指に移動する。
指と指が重なり、仲間たちに知られないようにひそやかに絡み合う。
「へへ……」
恥ずかしそうに、かすかに笑う彼女の声。
夜に染まった水際と空は、踊る星のきらめきに満ちて忘れられない光景を描く。幽玄の世界と生まれたばかりの恋の前には、何もかもが――奇妙な違和感すら消し飛んでしまう。
鳴く声を持たない蛍は、それだけが生きている証だと言わんばかりに光り集う。蝉のように生を主張して鳴くことはできない代わりに、その身を焦がす。それが古来から人々の心をとらえるのだ。
……後になって春海は、この日のことを鮮明に思い出した。
それは七月の初めだった。
自分が初恋の夏に浸っていたあの時、彼女は必死で涙を堪えていたのかもしれない、と。
――隠さずに、この腕の中で泣いてほしかった。
そうしたら強く抱きしめることができたのに。
喪失の恐怖と共に、抱きしめることだけはできたのに……
あれは、梅雨がようやく明けた七月の初め。
星の向こうに――東の空に――戻らなければいけないことを、彼女が知らされた頃。
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