[33回]
この倉鹿のどこかに、初恋の男がいる。
もう顔も覚えていないけどね、と言いながらも、その笑顔の種類はおれが今まで知らないものだった。
倉鹿の町のどこかに、初恋の男がいる……
……それが、どうしたっていうんだ?
だから何なんだ?
名前も顔も覚えていないような、遠い思い出が結実する可能性なんて――ほとんど無いだろう。それがどこのどいつだか、探し当てることすら難しいだろう……
……いや、だから、それが何だっていうんだ?
おれの知ったことじゃない。
もしも、偶然が重なって――どこのどいつか知らないが!――再会するようなことがあれば、こいつは小さな頃の恋を思い出すんだろうか?
六年前の初恋、と聞いてからわずか数秒の間、どうしておれはこんなことを考えているんだろう。いるかの初恋――そうか、そういう経験もしたんだな。夏休みの淡い初恋か、かわいいもんだ。
友人としての感想ならその程度で済む話なのに、いったい何を考え込んでいたんだろう。一馬や兵衛のように、そりゃあ意外だ、本当にそうなのか……という顔も作れない。
誰なんだ。いったい、誰のことなんだ。
倉鹿のどこかにいる、その男ってのは……
「あの時、ここに写真置いて帰ったんだもん。どっかにあるはず……」
いるかが何かを思い出し、院長宅の押入れを掻き回している間も、おれは進や一馬のからかい話に乗っていけなかった。
はっきりとした理由なんてない。けれど面白くない。
知りたくない、そんな奴のことは。
顔なんて見たくもない。何をやってるんだ、あいつは。写真を探してる?――動かぬ証拠があるのかよ。そんなもんが本当に残っていれば、誰だか分かってしまうじゃないか。
ここまで、たったの数分。
「ああ! あったぁ!」
宝探しを果たしたかのような、いるかの声。
「どれどれ。見せろよ」
興味津々で覗き込もうとする、おれ以外の男たち。
一人だけ顔を逸らす訳にもいかず、いるかの手にした写真を遠巻きにちらりと見て――それから、男四人がほぼ同時にそれぞれの目を疑った。
誰なんだよ、それは。おまえの『初恋』は誰に向けて生まれたんだ? 気分が悪い。いや、おれが気を悪くする理由や必然性はどこにもない。
だけど、どう説明すりゃいいんだ。今のおれは……確かに気分が悪い。
六年前の夏。
その時おれは、何をしていたんだろう?
同じ倉鹿にいたはずなのに、出会えないままだったのか。……いや、だから、おれには関係ないじゃないか?
さっきから自分が何を考えているのか、まったく説明できない。
「……」
そして、今、目にしている一葉の写真もにわかには信じ難い。いったい、これはどういうことなんだ?
「……え? これ……」
「これは……」
「これって、もしかして……」
写真の中で、見知らぬ少女と並んで写っていたのは……
今ここにいる、四人の男たちだった。
◇
口も聞けない有様のいるかに別れを告げ、院長宅からの帰り道。
一馬がなぜか、しみじみとした口調で言った。
「いやあ、驚いたのなんの。いるかの初恋が、まさか春海だったとはなあ……!」
「……」
「あのあと、わざわざ水泳の特訓をしてやってたなんてさ。おれたち、全然知らなかったぜ」
「もう細かいことなんて覚えちゃいないけどね。それでも、会うなりあいつが喧嘩売ってきたことは思い出した」
くっくっと、進がおかしそうに笑う。
「いや、おまえが最初に売ったんだっけ。女はつまんねえって」
「……」
当分はこればかり話の種にされそうな勢いだが、まあ、全員に共通した思い出ならば仕方もない。それに、おれは……
おれも、ふいに甦ってきた記憶に押し流されそうになっている最中だった。おれだっているかに負けず劣らず、まったく顔も名前も覚えていなかった。
あの生意気な女が。
出会った時はまったく泳げなかったのに、あの恐ろしい濁流を泳ぎきった女がまさか……いるかだったとは……
夏の終わりの日、おれはあいつを探していたんだった。川のほとりで。
そう、思い出した。倉鹿の子供じゃないことは分かっていたから、あの日おれは、汽笛の音に初めて感じたんだ。言葉にできない思いを――
多分それは、今にして思えば、寂しさという感情だったんだろう。
あの、何とも言えない気持ちをおれの内に残していったのは――無理やり植えつけて消えてしまったのは――おまえだったのか。
(顔も覚えてないけどさ。へへ……やだな、初恋とか言わないでよう)
写真を見るまでの数分間、訳もわからず、たまらなく嫉妬した相手が自分だったなんて。――薄々気づいてはいたが、おれは春からどうかしてる。
四月になった途端、何かが動き出して壊れ始めた気がする。
(は……春海なの? 春海だったの? あの子が春海だったの? うそでしょ……で、でも、でも……うそだあ、進も兵衛も一馬もいるじゃん……)
あの時も、今も。
この町のどこかに、彼女の初恋の男がいる。