[23回]
記憶が飛んだ訳ではないが、気がつけば主将は野球部の部室にいた。
と言っても、たかが部室にやわらかなベッドや寝心地のいいソファがあるはずもない。間違いなくここは床だ。それなのにどうして気持ちがいいんだろうと彼は思った。
そして、自分の髪をなでる手に気がついた。
「……」
「どう? もう大丈夫?」
「……」
春海は目だけを動かして、状況を把握した。
いるかが足を投げ出して座り、その膝に春海の頭を乗せていたのだ。
狭苦しい部室ではあるが、開け放した窓のそばなので風は通っていた。
「……みんなは?」
いるかは春海を覗き込んで、患者の様子を慎重に伺う看護婦のような顔をする。
「後片づけやってる」
「――主将がこれぐらいでぶっ倒れてどうすんだよ。情けねえな」
「春海はクラブでいちばん大変だって、巧巳もちゃんと分かってるよ。毎日投げて投げて、主将の仕事もきっちりやってるんだから。……昔っからそうだよね、春海。どんなに大変でも手抜きしないんだよね」
子供をあやすように、いるかは言った。
「でもね、たまには休まないとだめだよ。春海がいなきゃみんな困るもん」
彼女のその声は、なぜか母を思い出させる。まるで我が子を慈しむような……春海はそう思いながら、また目を閉じた。
「……俺がいないと困る?」
「困るに決まってんじゃん。生徒会も、野球部も」
「そうじゃなくて……」
「髪、乾いたね。巧巳が派手に水浴びせちゃったんだけど」
「ああ、それは覚えてる……と言うか、別に気絶した訳じゃないんだし。自分でここまで歩いてきたんだよな……」
真夏の午後の風が、二人の髪をかすかに揺らす。
無限に続く蝉の声も、こうして屋内で聞いている分には悪くない。
「……なあ、いるか」
「うん」
「おまえも、俺がいないと困る?」
「……」
いるかの大きな目が笑った。そして、彼女の大事なエースの額を――よしよしとあやすように――何度もなでた。
「世界中で、あたしがいちばん困る。だからね……」
「……」
春海が何か返事をする前に、いるかは顔を傾けた。
「今だけ、ちょっとおやすみ」
額に小さな温度を感じた春海は、もうそのまま後片づけの義務を放棄しようと決意したらしい。
連日の猛暑でさすがに疲れ気味のエースピッチャーは、小さな猫の膝に心地よい天上の場所を見つけたようだった。