まあ、何と言うのか……これは「歴史のIF」ネタです。
よくよく考えてみれば、原作中唯一の大告白ですからね。春海が決心しても不思議ではない分岐点ではある。
家出前だから、縁談だの親だのという変なしがらみも無かった頃だし!
あくまでも、「歴史のIF」です。
書いてみて実感しましたが、こういうリアクションをしなかった(と思われる)原作春海は十分に紳士でございますよ。
「ねえ、あの……怪我、まだ治ってないんだよ?」
彼女が、いかにも痛々しい彼の顔や、肩を包む包帯に――服の上から、触れる。
「痛いんでしょ?」
「まあ、痛いな。でも、おまえが憶えてるうちに確認したいんだ」
「か、確認って、なに……」
「この口が言ったことだぜ。忘れてないだろうな」
彼の指が彼女の唇を突く。
残り少ない夏休み、たまたま両親のいない日。彼女の家に彼がやって来て、いつになく真剣な顔で――と言っても、彼女以外には判別できない種類の表情だったが――いるかに切り出した。
もう一度聞きたい、と。
「ゴールして、俺に言ったこと。――言ったんじゃなくて、盛大に叫んでたけど」
「……」
いや。
そう呟いて、いるかは赤くなって目を逸らした。
「なんで、今日、そんなこと……聞くの?」
「……」
「やめろ、言うなって止めたのは春海じゃん」
逃げられない。――彼女は彼の気配に、猫のように毛を逆立てる。
逃がさない。――彼は確かめることしか考えていない。それがどんな形になろうとも、もう一度確かめないことには夏を越えられない。
「もう一回、誰もいないところで聞きたいんだよ」
「だ……だって、今日、遊びに行くんだよ。映画見るんだっけ? 買い物するんだっけ……ね、ほら。あたし、ちゃんとした服着てるでしょ。早く行かなきゃ」
「買い物なんかどうでもいい。こっち見て」
おいで、おいでと誘うように横たわる彼女のベッド。
「――み、み、見てるよ。見てる……」
春海は、まったく笑っていなかった。ただ、まっすぐいるかを見つめている――彼女にはたまらなかった。あちこちに見える傷の半数は、彼女のために彼が負ったものなのだ。
ただ、彼女のためだけに。
「痛い……? よね?」
「……俺、これを見せつけて、おまえを脅してるんじゃないぞ。消えないから仕方ない」
「で、でも、でもさ。それ見たら、あたし……巧巳と……」
春海が、それ以上は言わせないとばかりにいるかの唇を吸った。
「ん、ん……」
「目に見えちまうからって、おまえがそんな――悪いことした、なんて顔することない。これは、俺の勝手でやったことなんだから。巧巳に喧嘩を売ったのは」
「……」
いるかは目を閉じたが、頬にひと粒の涙が流れ落ちた。
泣くなよ、という春海の指のしぐさ。
「だって……」
「いや、巧巳に売られて俺が買ったってことになるのか……理屈とか筋道なんか考えられなくて、よくも俺の目の前で……って、歯軋りして喚いた。あの時の俺って、そりゃあみっともない顔をしてたんだろうな」
「……」
「でも、どうしようもなかった。先輩だろうと誰だろうと、これだけは絶対に……勝手だろ、我儘だろ? おまえは俺のものじゃないのに。誰を好きになっても自由なのに」
「ちがうよ……あたし、誰も……好きじゃないよ」
「誰のことも?」
「友だちは――巧巳だって友だちだもん、好きだよ。でも」
いるかは、首を振った。春海が何を知りたいのか、確かめたいのかは彼女にも分かっていた。ただ、こうして改まって告げることに恥じらいを感じているようだ。
「でも、他の誰も、は、入って来れないんだよ……ここには」
いるかは自分の胸に手を当てて、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「あたしがいちばん、好きなのは……」
「……」
「いつも、ここにいるのは……春海だけだよ」
「……」
「春海……だけ」
そんなの、と、いるかは続けようとして、春海の腕に軽々と掬われる。
「そんなの、知ってるくせに……もう、ちょっと! やだ……下ろしてってば」
「おまえ、本当に軽いな」
「もう! 自分のことなんだから、分かってるでしょ! 顔も、肩も腕も怪我だらけなんだからね! 暴れちゃだめ。――ねえ、ちゃんと言ったから……も、下ろして」
「下ろすよ。ここに」
春海がベッドを見下ろしながら、にこりともしない顔で答える。
「俺も、もう一回言うぞ。おまえが好きだ」
「は……」
いるかは息を飲んで、今はもう一切、ふざけた戯言や笑い事を遮断した様子の春海をまじまじと見つめた。
(どうしよう。どうしよう……笑ってくれない、冗談にしてもらえない……)
「いるか」
「えっ……あの……」
「嬉しかった。おまえの気持ち、言葉で聞けて」
春海はいるかを抱えたまま――まるで絵本の中の、姫君を救い出す王子のように――ようやく目もとを和ませた。
「あんな騒がしい場所だったけどさ……でも、本当に嬉しかった。それに、今もちゃんと言ってくれただろ。……ありがとうな」
「――だって、あたし……あたしこそ、春海があの時、朝に……言ってくれて、だから、走れたんだよ。あたしもちゃんと答えなきゃって思ってて、でも、最後に春海があんな大怪我して倒れちゃって、こ、こ……こわくなったんだ……すごく」
「……」
「まだ返事してない……あたしも好きだって言ってないのにって思ったら……こわかったんだよ……ん、んっ」
再び彼女は、熱を孕んだキスを受ける。
「ん……はる、うみ……」
「もう一回聞いたら、それだけで……十分だって思ってた」
彼らにとって未知の場所、見たことのない領域。恐ろしいとは思っても、情熱の鼓動はあまりにも速く全身を駆け巡り、その恐怖を上回る。
「でも……」
「……」
「でも……どうしよう?」
つい先ほど、いるかが心の中で考えていたのと同じことを、春海は口に出して問いかけた。
「どうしようか。……どうする?」
「どう……って、あの……とりあえず、あの、今日は」
出かけなきゃ……と、いるかが小声で言う。
春海は一瞬、深い深い息をついて、やわらかいベッドの上に彼女を下ろした。そこから離れる隙を与えず、彼女の視界を塞ぐようにしてベッドに手をつき、覗き込む。
「ち……」
いるかは思わず――他にどうしようもなくて、笑ってしまう。
「近すぎる、それ」
「そうか?」
俺にはまだ遠いのに……と、言外に春海の声が告げていた。
「近すぎて、怪我の跡もぜんぶ見えちゃうよ。ここ、とか……」
その傷は、姫を攫っていこうとした魔物に闘いを挑んだ末の名誉の負傷。小さな姫は、彼女の王子の頬をそっとなぞった。
「ごめんね、痛いね……」
「……」
春海は、頬をなぞってくるひとさし指を掴み、口に含んだ。
たった一瞬のことで、指はすぐ自由になった。けれどいるかは真っ赤になって、無意識に後ずさりをしてしまう。どこにも逃げる場所はない。
「……どうする? どうしたらいい?」
春海が繰り返す。
「……わかんない」
彼を見上げることしかできない彼女は、ぼんやりとした声でそれに応えた。
突き刺さるような夏の光は、今の二人には届かない。
蝉の声、吹き抜ける風、白い雲と青空に彩られた夏は、長々と居座ったあとにようやく支配力を失って、次の季節に追いやられていく。
夏を――この夏をそっと見送れば、何事も起こらない。
もしも八月の灼熱に巻き込まれれば、その瞬間から彼らの距離は大きく変化するだろう。――限界の近さまで。そして、計り知れない深みまで。
何も教えられなくても、少女は知る。その目、その唇、その心と肌で少年の思いを知る。
それでも……
つぶやきは、迷子のように。
「あたし、春海がすき。――でも、わからない」
「……」
「わかんない、どうしよう。……ねえ、どこへ……行こう?」
◇
どうしよう、どうしよう。
こんな『擬似その時』をいくつもパターン化して書いていたら、いざ本番でボキャブラリーが――ただでさえ貧困なボキャブラリーが――干上がってしまう。
本番での緊迫感、切迫感、感動、何もかもが薄まってしまう。そう感じたりり子は、怖れ慄きながらペンを止めるのであった。(比喩的表現)
どうしよう。
脳内春海さん(16)に、冗談にしてもらえない……
これはネタなのだと――これは悪ふざけなのだと――冗談で流してもらえない。それどころか脳内で盛大に「なるほど、家出前に越えるという手があったのか」と膝を打つ音が聞こえたのだ。
ああ、どうしよう。
これは――これは、ただの小ネタ記事なのに……
りり子の手が滑っただけなのに……
まあ、滑ってしまったものは仕方ない。
時系列の未来プロットは、当たり前ですがこれと同じような状況、展開にはなりません。同じじゃないからこそ小ネタとして書けた訳です。
それでも、こんな小ネタでボキャブラリーを使い尽くしてしまったらどうしよう、と怯えるりり子であった。
追記:7/26 さすがにもう、これ以上は書けません。というか書いてはいけない。
きれいにまとめられたかもしれない。いや、どうせ錯覚だ。
「(舞い上がり 燃え尽きて)どこへ行こう?」は、Coccoの「羽根」から拝借しました。
[39回]