深夜に電話があった。
およそ非常識な時間に呼び出されたが、用向きは分かりきっていたので異を唱えることもしなかった。
受話器の向こうの声は冷静極まりないように響いたが――若干、いつもより低く、聞き取りづらかったかもしれない。まあ、それも当然だった。むしろ冷静であることに驚いた。
蒸し暑い、八月の夜だった。
明日、駅伝本番を控えた選手同士だぜ。
それが前夜……いや、当日の朝というか明け方に、何を仕掛けてくるつもりなんだ?
いや、いや。仕掛けてしまったのはこっちの方か。
そんなつもりはなかったとか、ただの冗談だったとか言い訳してももう遅い。目の前にいる獣は今にも牙を剥いて襲い掛かってくるだろう。
――そもそもあれは、冗談でもふざけた遊びでもなかった。少なくとも俺は本気だった……そう、俺ひとりの中ではな。
……おい、少しは落ち着けよ。期待されてるんだぜ、助っ人の俺たちは。
何も、今日でなくてもいいだろうが。自滅するつもりかよ?
怒りのあまり目が据わって、口はもう建前の笑みさえ作れなくなっている。
こんな表情は初めて見た。仲間になっていなけりゃ鼻につくほどの秀才、天才、優等生……と、いくつも肩書きを持っていて、しかもそういう賛辞や評判を重荷とすら思っちゃいない。年下のくせに冷静で、たったひとつのこと以外では取り乱すこともない。
いや、今まで俺は、取り乱すというほどの場面には遭遇して来なかった。ただ、面差しがすっかり変わるというのは間近で見てきたけれど――
今それほど、俺の前で息を殺して唸るぐらいなら、どうしてあの時何も言わなかった? あの場ですぐ俺を殴ってみせればよかったじゃないか?
そうしたら、あいつだって……おまえは気づいてたのかどうか。
あいつは泣いてたぜ。
あいつは、俺をまともに見もしなかった。俺を突き抜けておまえだけを見てた……まあ、それが答えなんだろう。
俺も正直、そうそう簡単に割り込めるとは思ってもいなかったし――だけど、人間ってよ、どうしても抑えられない時ってあるだろ。気持ちを、さ。
俺は、あの時、あいつを可愛いと思ったよ。本気で。
俺だけを見てほしいと思ったんだよ。
結果的に、おまえに喧嘩を売ることになってもな……
俺が何かを言うたびに唇が歪んで、牙が――歯がちらりと見える。
これが本性だとすれば、何と言えばいいのかね……まあ、とんでもねえ優等生だ。不良という種族を経験済みの俺でさえ、これは相手にしない方がいいと判断する類の危険さ――凶暴な気配だ。
それで?
明日はお互い――もう今日だけどな――十分な気力、体力で臨まなきゃ到底走り切れない。引き受けたからには、お遊びじゃねえんだぜ。
ああ? 何だって?
ああ、ああ、そうだよ。さっきから何度も言ってるだろうが。
俺は本気だ。
おまえに遠慮するつもりはないぜ、一切。勝負が見えてたって、それでも俺はおまえに言うぞ。――冗談でも笑い話でもない、俺はあいつの、あいつらしいところが好きだ。
怖いもの知らずで、喧嘩っ早くて、勢いだけで突っ走って、それでも走るのをやめないんだ。無謀だけど一生懸命で優しい。顔も体も何もかも小さいのに、目だけはやたら大きくて、きらきら光ってて。
大雨に打たれながら、正美を励ましてくれた。
あんな女は初めて見た。初めてだから目が離せない。忘れられない。
似たような女なんていない。いたとしても、俺が好きだと思うのはあいつだけだ。
――おまえも同じか?
心当たりがありすぎるっていう顔をしてるじゃねえか。
なるほど、心当たりがあるのか。おまえも俺と似たようなもんで――最初からあいつを女だとか、可愛いだなんて思いもしなかった。それどころか、迷惑な――面倒なことばかりしでかす奴だってうんざりしてたんじゃねえか? そうなんだろう?
だから俺を、さっさと蚊帳の外へ追っ払いたいんだろ?
このまま放っておけば、俺はあいつに……今よりもっと本気になっちまうものな! 多分、おまえが通ってきたのと同じ道程で、な!
まあ、おまえにそんな――ちゃんとした権利や資格があるのかって聞いてみたい気もするけどな。いや、今日のおまえには理屈もへったくれもないか。
権利があろうとなかろうと関係ない、追い払ってやるって顔をしてる。
上等じゃねえか。
こんな機会、二度とないかもしれないよな。
この場では先輩も後輩もない、野球部も生徒会も関係ない。
どれだけ気性が荒いのか、ここで確かめてやろうじゃねえか。言っておくけど、俺はあんな事件が起きるまでは一応よく出来た生徒で、野球部の花形ってことになってたけど、だからって喧嘩のひとつもできねえ弱腰じゃなかったんだからな。
まあな、不良に染まりすぎるのも考えもんだけどよ。ああいうのは程々がいいんだ、程々が。
おまえは優等生だからって、重圧なんて感じもしないんだろうけどな……
それにしても、空気が重い。
朝になってしまえば、それなりに風も吹いてくれるんだろうが……
仕方ないか。この期に及んで、駅伝はどうするつもりなんだって聞いたところで。
さて。
襲い掛かってくる前に、ひとつだけ聞いてくれないか。春海。
こういう形でおまえに喧嘩を売ったことにはなったけれど、俺はおまえらには感謝してるんだぞ。感謝なんて言葉じゃ全然足りないぐらいに。
おまえらと出会わなければ……おまえたち二人が里見に入学してなけりゃ、俺は今でもどうしようもない留年生のままだった。正美に何て言えばいいのかも分からず、試合に出ることすらできないってことを隠して、ごまかし続けてただろうよ。
だから、おまえとの縁が切れちまうとしたら悲しいな。
おまえが許してくれなけりゃ、俺にはどうしようもないことだろ。――もちろん、あいつにも許してもらわなきゃいけないけど。
――ああ。おまえがここに入学してきた理由のひとつは、俺だった。それは知ってるよ。そういうのは直接聞くと照れくさいもんだけど、まあ、気分は悪くないな。
俺のホームランが、おまえの高い高い鼻っ柱をへし折ったってこともであるからさ。
なに?
何だって? 俺に聞こえるように言えよ、はっきりと。
俺が目の前にいるのに、ひとりごとで納得してんじゃねえ。言いたいことは全部言え。
「東条先輩」
おいおい。いきなり、そう来たか。
この後の反動が恐ろしいんだが……
「今は確かに同学年だけど、俺にとって先輩はずっと先輩です。――尊敬しています」
ああ、そうかい。
そういう熱い告白なら、もうちょっと穏当な環境で言えないもんかね。尊敬しています、という礼儀正しい言葉遣いにただならぬ殺気を感じるぜ。
「でも、あいつのことは……あいつのことだけは違う。話が違う……」
そうだろうよ。
でもな、好きで横入りした訳じゃねえんだよ、こっちも。
たまたま、おまえの方が出会うのが早かった。だからおまえは当然だという顔をして――その目つきだよ、今のおまえの目つき――邪魔する俺を駆除しようとしやがるけれど、あいつの意思はどうなってんだ?
おまえはあの後、泣いて帰っちまったあいつと話をしたのかよ?
あいつに連絡もしてないんだろ、その様子じゃ。
俺に喧嘩を売る前に、もっと大事なこと……すべきことがあるだろうが、この臆病者。それとも死ぬほど自惚れてんのか、あいつが俺に傾くことなんかあり得ない、絶対あり得ないって。
それはまあ、確かに事実かもしれねえ。だけどな、自信があったとしたって、あの態度はガキのするこった。惚れた女を慰めることもできねえガキだよ、てめえは。
何を考えてんだか分からない顔の下で、あの時どれほど嫉妬してた?
ふん、なるほど。
今から俺は、おまえの嫉妬深さを嫌と言うほど味わう羽目になる訳だな。いきなり本気かよ、痛えっつうの。
俺だけが鑑賞するのは、もったいない気がする。
こんな凶悪な、嫉妬深い生き物。
あいつだって知らないんだろう、きっと。――あいつにだけは知られたくないんだろう。
その気持ちは……男として、そりゃあ分からないこともない。
だけど、おまえ。
俺が心配してやることでもないけど、俺を打ちのめした後はさっさと行けよ。まっすぐに行けよ……あいつのところに。
俺だって、ここからは本気だ。
せいぜい、俺のつけた傷をあいつの前で晒して同情を引いてみろ。邪魔者は倒してやったって自慢して、あいつを安心させてみろ。
今日という日が終わってもあいつに何も言わないままなら――その時は本当に、俺はおまえの敵になるからな。
奇妙な予感だ。
俺たち、こうやって本気で向かい合ってんのに、すべてが終わったら今よりもっと仲間らしく――本物の友人になれる気がするよ。
どうしてかって、おまえ、分かるか?
俺とおまえの間にいるのが、あいつだからさ。
あいつがいる限り、壊れないって予感がするのさ。
なあ、おい。間違いなくあいつのことで争ってるっていうのに……そんなふうに思えるなんて、何とも不思議なもんだよな?
*****
ということで、真正面からは(三人称あるいは春海の一人称)書けませんでした。やっぱり野暮ですものねえ……
これも途中フェイドアウトだし。
春海はろくに喋ってないし。
巧巳一人称を書けたのは楽しかったです、はい。
一連の流れでは、時系列がはっきり描写されていないので今回の設定は私の捏造です。
ただ、駅伝当日の早朝(明け方?)に春海と巧巳が揃って、怪我だらけで校舎にいたことを考えるとあれがバトル直後だとしか思えない。
つまり、修羅場の直後(その日)に喧嘩した訳じゃない、と読めるんだな。
修羅場の時点で「明後日が大会」ということなので、少なくとも修羅場当日、その翌日が終わるまで春海はいるかに連絡を取っていないんだろう。
そして巧巳には、さて、修羅場でいるかが去った後に――その場で乱闘するのではなくて――たとえば、「明日の夜、学校へ来い」というお招きをしていた可能性もあるし、私の捏造のように電話連絡で呼び出しっていう展開もあるのかな、と。
何しろユニフォーム姿ですから、修羅場当日ではないね。絶対。
まあ結局、当日ではないにせよ修羅場翌日には春海は行動を起こしていると思うんですな。けりをつけなければ駅伝どころではなかったのか。
それより先にいるかに連絡しろよこのバカ、と、心情的には巧巳と同調して思ってしまうのですが、原作春海ってこのパターンが本当に多い!
ともすればイライラしてしまうほど、この人は慎重であり臆病であり、そして不器用だと思っております。だってねえ、女子サッカー部事件も、まのか騒動もウェストサイドもまったく同パターンなんだよね。
説明が後回し、あるいは説明(弁解)すらしない。
(まのかの過去話や女子サッカー編の進のように、他人に解説させるパターンが多い)
ウェストサイドだって、親父の陰謀だとすれば転校しない……って決めていたのなら、せめて鹿鳴会の連中にはそう説明できるでしょうが。
確定しない状況の中では説明も言い訳しないんだよね、春海って。
巧巳とけりを着けるまではいるかに会わなかったのも、彼なりの信念があったから……ということでしょうか。
こういう人は誤解されやすい訳で、ある意味で損な性格だと思う。春海の場合は特に、口下手という訳でもないから余計に「なんで説明しないの?」と思ってしまう。
原作でも女子サッカー事件でいるかにガン無視されていましたよね。あの時の彼の心境たるや如何に……
IFと銘打ちながらもカテゴリーは「高校生」です。
ここから正真正銘のIF小ネタ(駅伝後の夏休み)へ移動するもよし――春海の述懐には臨場感が出ると思います――いえいえ清らかでいいんですよ、の「Summer Triangle」や「夏の棘」「そしてまた、夏の終り」に移動するもよし。
当ブログ的に、実は駅伝後~家出までがかなり長い空白期間でして。
八月はまあいいとして、九月~十一月ぐらいまでですね。
私の中では時系列シリーズの出発点はやっぱり家出ですので、十六歳のこの三ヶ月が真っ白、空白……
小さい話では、動物園とか書いてるんですけどね。
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