[36回]
「一色くん」
その声に振り返った長髪の彼は、高等部に入学したばかりの一年生だとはとても思えない、奇妙な貫禄を漂わせていた。――そしてそれは、鼻梁を通る一筋の傷のせいだけではないのだろう。
「今日は早いんだね。鹿鳴会の仕事もなかったの?」
「そりゃまあ、新入生といっても俺たちゃもう三年の経験があるからな。仕事は飲み込んでるし、面子もまったく同じだし――忙しくなるのはこれからだろうよ。……というか、日向。鹿鳴会はともかく、今日は男子も女子も剣道部は休みなのは承知じゃねえか」
「うん、もちろん。それは分かってるんだけど」
くすっと笑った彼女は、おかっぱに切り揃えた黒い髪が印象的な少女だった。
「日向こそ、一人って珍しいんじゃねえの。大川は?」
「博美はソフト部で、ちゃんと一年生やってるよ。はい先輩、お願いします先輩、なんて言っちゃってね」
日向湊は笑った。
「博美だってすぐレギュラー入りするのは目に見えてるんだけど――それに、来年には絶対キャプテンにだってなると思うし――とりあえず今は、真面目な新入生をやってるねえ」
「なるほどね。入学したてで生徒会を牛耳った俺たちも、さっさと女子剣道部の副主将に納まった日向も、さぞ可愛くねえ一年生なんだろうなあ。はは」
私立倉鹿修学院の中等部で三年間、生徒会役員を務めた一色一馬は肩をすくめて馴染みの女子生徒を見やった。
彼らは中等部の頃から友人づきあいをしていたが、それは中心人物がいてこそのつながりでもあった。今となっては伝説とも言える鹿鳴会会長、その名を分け合った二人はもうここにいない。
「といってもさ、進も兵衛も一応は殊勝に一年生やってんだぞ?」
「そりゃそうなんだろうけど、中等部鹿鳴会のことはさんざん知れ渡ってるじゃない。実際、やっぱり三人とも陸上オリンピックでトップ取っちゃうし」
すっかり通い慣れた通学路を、二人は歩いていく。春になったばかりの倉鹿市は、桜こそ散ってしまったものの山々の色は鮮やかに、木々も瑞々しく、何もかもが新しい季節に彩られているようだった。
「確信があった訳じゃないんだぜ。高等部ともなりゃ、俺らだって負けるすげえ先輩方がいるかもしれねえってさ。でも、もしも――春海が……」
一馬は、そこで言葉を切った。
「……いやいや、今のは無し、な」
「……いいじゃない。話したくなったら話せば」
寂しさと懐かしさが同じだけ混じり合った表情で、湊は先を促す。
「山本くんといるかちゃん、元気かなあ」
「……ま、あいつらのこった。元気でやってるだろうよ」
一馬は午後の空を見上げて、ようやく二人の名を口にした。
「春海はもともと何の心配もないだろうけど、いるかは、ちょっと分からねえな。受験で頭使いすぎて、今頃は抜け殻になってたりして」
「でも、ほんと、いるかちゃんはすごいよ。あの里見学習院に受かるなんて」
「そうだよなあ。受験するって決めて半年しかなかったのにな。まったく、思う念力岩をも通すってのは真実……」
再び一馬は口をつぐんだが、湊は特に気にしている様子もない。――誰もが憧れる人気者だったとは言え、なまじ同じクラス、同じ剣道部で男子女子それぞれの主将という近い位置にいただけに、一馬は彼女を妙に気遣ってしまうのだった。
山本春海に憧れていた、という湊の心を。
もちろん彼女は、如月いるかとは本当に仲が良かった。男連中から見ても湊、博美、いるかの三人は仲の良い同級生で、さらに、距離感は若干違うものの出雲谷銀子と伊勢杏子の二人も仲間だった。そこに鹿鳴会の男たち四人が加わり、十四歳の春以降、何だかんだと顔を合わせることが多くなり親しくなっていったのだ。
それ以前の鹿鳴会は、多くの生徒たちにとって憧憬の対象ではあったけれども近づき難い存在でもあった。そもそも会長からして務めと規則が第一、勉学とスポーツが第一、幼少時代より『女はつまらない』と断定し、自分に向けられる黄色い声援にもほとんど反応しないといった可愛げのない十四歳だったのだ。
ひとりの少女がそんな頑なな彼を変えた――その時に修学院中等部だった生徒は全員、この先もずっと忘れられないことだろう。
無表情あるいは難しい顔ばかりしていた彼が、笑うようになる。冷静であるはずの彼が怒り狂う。そして、気まずそうな、途方に暮れた表情をして涙を流す少女を抱きしめる……
彼を変えたのは院長の孫娘だった。
恋の成り立ちをすぐそばで見ていた湊は、いつしか憧れをそっと封印したのだろう。彼女は相変わらずいるかと仲が良く、時には女子剣道部主将として同志の絆を育んでいった。十五歳の夏のある日、湊の心を知った一馬が――それ以来――何気なく女子たちを見ていても、そこに妬みという感情は微塵も感じられなかった。
もし湊が正直にいるかに告げたところで、これまた正直すぎるいるかが混乱の極みに陥ることは容易に想像できる。しかも湊の小さな片思いというだけで、春海にとっては恐らく寝耳に水という話なのだ。
何も言わずにいることが、すべて丸く収まる最善の方法だったのだろう。
しかし――と、一馬は考えてしまう。今ではもう、消え去ってしまったのだろうか。痛みはないのだろうか……
友人ではあるけれども、そして部活動も同じ剣道部ではあるけれども、今のところはそれだけだ。関係性を語るにしても、中等部からの友達。山本春海と如月いるかを中心とした仲間たち。そうとしか言いようがないし、それ以上を望んでいる訳でもない。
日向湊は昔、山本春海に憧れていたこともあった。――今となっては、それだけの。ただそれだけの、小さな秘密なのだ。
湊が足を止めた。
「じゃあね、また明日」
そこで、二人の帰り道が分かれていく地点だった。一馬は「おう」と頷いたが、一秒後には湊と同じ方向に歩を進めていた。
「あれ、こっちに用事あるの?」
「そういうんじゃないけど。――送ってくよ」
「え?」
湊が驚いたように言った。
「送るって、あたしを?」
他に、誰のことを送り届けるというのだろう。さらりと受け流してくれればいいものを、なぜ女性はわざわざ繰り返して質問するのだろう。
友人ではあるが、それ以上ではない。
約束をして行き帰りを共にしている訳でもない。けれど、一緒になったからには女子を家まで送り届けるのが紳士的な態度ではあるまいか――?
「大丈夫、まだこんなに明るいんだから」
「ま、いいじゃねえか。たまには」
一馬はなぜか地面を眺めながら言う。湊は首を傾げながらも、すぐに「ありがとう」と応じた。一馬は内心、ほっとしたようだった。
ここで妙にしつこく、なぜ? どうして? と聞かれても男は困るのだ。
「でも、あたしの家ちょっと遠いよ。一色くんはもう、すぐそこでしょ」
湊が言うのと同時に、少し離れた路地裏から騒がしい声が聞こえ始めた。
「――おおい、一馬かあ。今日は早いんじゃな」
「こりゃあ珍しい。おい、一色のばあちゃん。あんたの孫が彼女を連れとるぞ」
「まあまあ、きれいなお嬢さんでないかい」
「……」
一馬は鞄を肩に引っ掛け直して、うんざりした顔をした。
「近所のじいさんたちだよ。そんで、うちのばあちゃん」
倉鹿市は全体的に小じんまりとした町で、小さな路地裏にもぽつぽつと商店が並んでいたりする。その店先にはベンチが置いてあり、老人たちの恰好の集いの場にもなっているのだ。
「じじいとばばあの言うことだと思って、放っておいてくれよな」
一馬はため息まじりで、湊に呟く。
「まあ、まあ。一馬、あんた。高校生になったと思ったら、もうこんなお嬢さんと」
「一色家は安泰じゃのう、ばあさん」
「あのなあ、ばあちゃん……小山のじいさんも、和田のじいちゃんもいい加減にしろっての。クラスは別だけど、中等部からの友だちだよ」
若者ほど耳が良くない老人たちと、声を張り上げて会話する訳にもいかない。一馬たちは路地裏に入り込む。湊はおかしそうに口もとを押さえてしまっていた。
「友だち?」
「そう、友だち! じいちゃんたちもさ、春海を覚えてるだろ? 一ヶ月前までここにいたんだから……」
「おお、山本の。あそこの長男かい」
「えっらい美形の、ねえ。でも一馬も負けちゃいないよ。背は同じぐらい高いじゃろ」
「何じゃと? 先月までは倉鹿にいた? そんなら今はどこにいるんじゃ」
「……」
一馬と湊は顔を見合わせた。
「だから、その春海も混ざって、進や兵衛もいて、俺たちゃ友だち同士で……修学院の如月院長のとこに去年まで孫が住んでただろ? いや、男じゃなくて孫娘が! もう東京に戻っちまったけど、そこの孫もずっと俺らと友だちで……山本ん家の二人は、この間、親父さんに呼ばれて東京に行ったの!……分かった?」
一馬の説明がとりあえず終わったことを知り、老人たちは再び、てんで勝手に話し始めた。
「長男だけじゃなくて、下の子も行っちまったのかね? あの家には誰もおらんのか。どうなっとんじゃ、今は」
「如月先生の孫娘……ああ、あのちっさい、やたら元気な子か。……ということは、何じゃな。その子を、山本んとこの長男が東京まで追いかけてったって? 女を追いかけて?――ほう、ほう。あの息子はとてもそんなふうには見えんかったけどねえ。親父さんに似て、相当の切れ者だっていう噂じゃないかね」
「……」
一馬はそんなことにまで言及していないというのに、老人たちの嗅覚の鋭さには――話の上っ面だけを繋げた結果だとしても――驚くべきものがある。それはある意味、究極の真実だったかもしれない。表向きの理由は他に数多くあったけれども。
「まあ、とにかく、そういうことなの。春海といるかはいなくなっちまったけど、俺らは高等部で一緒だし、クラブも同じだし……おっと、こんなところで年寄りの相手してる場合じゃねえ。日向を送っていかないと」
一馬は慌てた様子で、湊の背中を押した。湊はそんな体勢で、辛うじて老人たちに会釈をした。
「お嬢さん」
一色家の祖母が、湊に声を掛けた。
「はい?」
「いい、いい。放っといていいから。日向、早く行こうぜ」
「うちの一馬と、これからも仲良くしてやって下さいねえ」
「ばあちゃん!」
ほとほと呆れたように一馬が叫ぶが、湊は笑いながら頷くのだった。
「はい」
「こんなきれいな……が、が、があるふれんど、が一馬にいるなんてねえ」
発音が明らかに若者のそれと違ったので、高校生二人は最初、祖母が何と口にしたのか分からない表情だった。しばらくして、一馬は頭痛がするというように額を押さえるのだった。
「だから、違うって。友だちだって言ってんだろ。ガールフレンドなんて、まったく」
そこに口を挟んでくる、近所の老人たちであった。
「何でじゃ? ガールの、フレンド。女の友達っちゅう意味じゃろうが」
「あはは……」
ついに、湊が声を上げて笑い出した。
「そうじゃろうが、なあ。お嬢さん」
少女の笑い声を引き出すことができて嬉しいのか、老人は顔をほころばせつつ念押しをする。
「そ、そうですね。フレンド……確かに、そうですよね……」
何がそれほどおかしいのか、一馬にはよく分からない。それとも箸が転げてもおかしい年頃なのか。そう言えば女子というのは、教室で群れになってはよく笑っているものだ。
「ほれ、一馬。お嬢さんもそう言ってくれとるよ」
「ああ、はいはい。ガールの友だちね、友だち。じゃあ俺ぁ、その友だちを家まで送ってくるからよ」
ようやく老人集会から逃れることができた若者たちは、その後しばらく黙って歩いていた。気を悪くしたのではないかと一馬が内心思っているところへ、湊が目もとを笑わせたまま振り向くのだった。
「面白いねえ、一色くんのご近所さんたちって」
「暇なんだよ」
「何言ってるのか、最初はわかんなかったね。お祖母さん」
「使い慣れねえ言葉を無理して言うからだぜ」
「ふふ。可愛いお祖母ちゃん」
「……」
湊の家が見えてきた。いつの間にか春の午後は傾き始めて、古都が夕方の色に染まろうとする時刻。
「ありがとうね、わざわざ家まで」
「気にすんな。ついでだよ」
「明日は、男子と女子の合同練習だよね」
「新入生っていう顔で、しおらしくな。日向は副主将だから偉そうにしてりゃいいけど」
「やだな、そんな顔しないよ。……あ」
ふいに、湊が言った。
「――そう言えば。アイスホッケーは、もうやらないの? 一色くん」
「いや、冬になりゃまたやるよ」
「そうなんだ。よかった」
修学院のアイスホッケー部といったら、全国で有名だもん。続けなきゃね――と、湊は付け足した。
話が途切れた瞬間に、一馬は片手をひょいっと上げる。
「じゃあな」
「うん。ほんとに、ありがとう」
「いやいや、フレンドだろ。当たり前」
一馬が舌を出すと、湊もおかしそうに噴き出した。
「お祖母さんの発音、思い出しちゃった」
鐘の音が鳴り響き、倉鹿の一日が暮れようとしていく。湊の家は坂の上にあったので、平地から見るよりは俯瞰の角度で倉鹿市を眺めることができる。
一馬と湊はしばし無言で、自分たちの住む町を見渡した。
なつかしいこの風景を、東京の二人も思い出す時があるだろうか。
懐かしい友人たち、懐かしいこの町のことを。
「……フレンド、かあ」
湊は小さな声で、ひとりごとのように呟く。もちろん、一馬にはちゃんと聞こえていた。
「そこから変わる時って、何が起きるんだろうね?――山本くんといるかちゃんが、いつの間にか変わったみたいに」
まだ、何も始まらない春。
予感の音さえ聞こえない春。
泣きながら消えた少女を、少年は追いかけていった。迸る思いを諦めることも、忘れることもできずに。
そんな彼らに置き去りにされた古い城下町にも季節は巡る。春夏秋冬を幾度も繰り返し、そこではやはり、ひとびとの毎日が続いている。