とある古い歴史ある街には清い川があり、その水底に彼は棲んでいた。
彼は長きに渡って眠り続けていたので、自分が何者であるかもほとんど忘れかけているようだった。しかしその忘却は彼の役目を邪魔するものではなく、毎日はさして変わりなく、晩夏の嵐を人々は息をひそめてやり過ごし──街は在り続けた。
彼が深い眠りから目覚めたのは、その日、水面に映る太陽があまりに眩しく深き場所まできらきらと反射して届いたから──なのかもしれない。
重い瞼がゆっくりと開き、意識を取り戻した瞬間に彼は彼女の目の前にいた。
彼女は驚いたが、あまり物事に拘らない性質なのか、彼をまじまじと見つめてから少し笑った。
彼は、彼女のやわらかな髪の色が自分を起こしたのだと知る。そして同時にこう思った──「自分は誰なのだろう」と。
彼女に問うても答えがあるはずもなく、その代わりに自分の名を口にするのだった。私の名は射鹿。あなたは誰。
彼女は最近になってこの街に連れて来られた──らしかった。祖父の家に引き取られているという。そして彼女は、自分は泳げないと言うのだった。
泳ぎたいと思うのに水が怖い。
こんなに大きな川は生まれて初めて見たから──海、などという大きな未知には怖れしか感じないのだと。
彼女は彼に名をつけた。
何処から出てきたのか分からない。川から、水から生まれてきたかのよう。さくらの花が水に散ってとても綺麗。──春の……春の水……見たこともない大きな水。うみ。
春の海。
彼は、それでいいと言った。そしてその日から彼女と毎日会うようになり、彼女の身の上も知って行った。
剣士であった祖父は彼女を引き取るのと同時に亡くなり、由緒ある家に残るのは彼女ひとりだと言うのだ。秋が来るまでは隣人が世話をしてくれる、しかしそれから先はどうすればいいのか……
彼は彼女の陽色の髪に見惚れていた。どうして目覚めたのか、そもそも自分は何なのか。彼女と出会う前は何をしていたのか。そんな疑問は彼女に見つめられると消えた。彼女が彼の「名」を呼ぶたびに彼は心が育っていくのを感じていた。なぜかは分からない、だが自分にはきっと彼女に海を見せる力がある──と感じていた。
怖くなどない、水は生命を育むもの。
泳げないのなら優しく抱くから、少しずつ水を知ればいい、彼女の世界はもっともっと広くなるだろう……何か月か過ぎ、射鹿という少女のくちびるを知ったあと、ある日突然に彼は自分の正体を見た。
街の人間が、川べりに何かを──それが人間のはずがない、と彼は思いたかった……どさりと置いた。
白い装束を着せられた「誰か」を。
そのまわりには様々な食物、装飾品、清めの木の枝──など。
水の神よ、十年に一度の供物を捧げるがゆえにこの街を水の災いからお守り下さるよう。いつも水を湛えて下さるよう。
この少女はあなたへの供物。
祖父のいない、しかし由緒ある家の血が十年祭には好都合だった。どのみち、もう身よりもないのだから。
その川はたちまち──晴天が一瞬の間にどす黒い雲に覆われ──荒れ狂った。彼女はもう目を開かなかった。
自分は……そう、神と呼ばれる水の化身だった。
それでは、出会った時から決定していたのか。自分に捧げられたというのか、あの眩しかった少女は。
絶叫を孕んだ嵐は街を包み込んで、幾日も止まることもなく──太陽の前に力尽きるまでは、この街を許さないかのようだった。
彼は自分の意識を再び手放した。もう二度と目覚めることはないと、彼女のちいさなからだを抱いて眠りについた。
記憶の中の声さえも。遠くなっていった。
名前も知らずに消えていった少女を、年齢不相応な感慨と共に少年は思い出す。
鉄道橋には汽笛の音。あの列車に彼女は乗ったのだろうか?
名前も知らなかった。彼女も彼の名前を知らなかった。この街の住人でなかったことは確かだ、出会った時は泳げなかったのだから。
いつかまた会うことはあるのだろうか。
見に来ると言ったはずなのに、今日の水練大会を。
彼の教えで水を知り、濁流を泳ぎ切って何かを言いかけた明るい髪の──
(春の……)
(ああ、それでいい)
(勝手に名前をつけてもいいのかな。…背が高くて大きくて、きれいなまっすぐな髪、水のよう……ねえ、どこから来たの? だれなの?……はるうみ)
遠い昔。
その街の川には龍神が棲んでいたという。
◇
「ねえねえこれって、ぜ、ぜ、前世とかいうやつ!?」
「書くなと言っただろうがあああ不幸オチは!!」
いや前世とかそんな胡散臭いアレじゃない。
書いてみたかっただけ。前世ダメゼッタイ。
今朝まですごい鼻づまりで今はズルズルくしゃみ連発。そんな状態でなぜ更新するの私。
以前、書いてみたい設定はあるんだけど不幸だからどんなもんかと見送っていたファンタジーです、
元はいつもの調子で長々と出会いから書いていたのですが、どうせ最後は悲劇だと思うとどうも進まず、セリフほぼ無しの短文バージョンになりました。
そして、こういう神と人との話に「なんか昔どこかで読んだよね……」とずっと考えていたのですが今回仕上げたことで思い出しました。手元にもない大昔の漫画の番外編みたいなやつだった。
「風霊王」外伝の最後に収録された脇役同士の前世話だ!
そうそう、手元にないけど思い出したわー!
メイン話じゃなくて外伝だけが妙に好きだった。
[8回]