[48回]
誰に唆されてもいないし、何かを要求された訳でもない。
以前に勧誘を受けたのは事実だが、今回のこととはまったく関係ない。少なくとも俺は、寄付金の恩恵で入学するつもりなんかない。
自分の意思で決めたことだ。
この町を見捨てるとか、見切りをつけるなんていう問題でもない。ここは一生ずっと、俺の生まれた場所だ。忘れられるはずがない。忘れようとも思っていない。
けれど……
俺を駆り立てるのは、野心なのだろうか。
ここには、ない。
ここにはいない、消えてしまった。いなくなってしまった。昨日までそばにいたのに、今日には跡形もなかった。
待っても戻って来ないのは分かってた。だから……
俺をここまで駆り立てるものは……
追おうとしているのは……どうしても追わずにいられないのは……野心や野望の類じゃない。もっと単純に、わがままな子供のように、ここにはいない誰かをもう一度見たいだけ、名前を呼びたいだけだ。
ほんの少しの建前は口に出来ても、本当の心は偽れない。
今の俺には、この町を出る理由がある。
◇
「倉鹿に電話するぞ」
「いま? みんなと話せるの?」
一瞬でも長く、このままでいたいと思った。素直に、合格の喜びに顔を輝かせたまま、いるかは俺の腕の中にいる。
「もうほんと、ほんと、信じらんない。うそみたいだぁ……」
「……」
「信じらんない……ほんとにあったの、345番? もう一回見たら、消えてたりして……」
「そんな訳あるか。俺がちゃんと見たよ」
「……うれしい。また、おんなじ学校に行けるんだ……」
そう呟きながら、いるかは我に返ったのだろう。照れた顔をして後ずさる。――嬉しいと言った時、いるかの目はあまりにもまっすぐに俺を見つめていた。
「あ、そうだ。あたしも母ちゃんに電話しないと!……倉鹿のじいちゃんにも。春海もほら、徹くんに電話して」
「うん」
この日、里見学習院近くの公衆電話はどこも大渋滞だった。俺はまず徹と藍おばさんに――自動的に親父にも連絡が行くようになっているんだろうから――報告をした。その次に、進の家の電話番号。
自宅と、倉鹿の如月院長宅に電話を終えたいるかが、俺の方に寄ってきた。
自分の数字を見つけた瞬間からずっと、顔のすべてが笑っている。にこにこ、という擬音以外にあり得ない笑顔で俺を見上げる。
前もって聞かされてはいたが、進の家には男連中が集っていた。二人の合格を知らせると、進たちは叫び――俺のことはすっかり放置して――いるかの大奮闘に対して、惜しみない賛辞を送ったのだった。
「うん、ほんと。ほんとだってば! あたしだって信じらんないよ。でも、春海がちゃんと確認してくれたし!……うん、ありがとね。……あ、もしもし? 一馬なの? うん、ありがと! えへへ、みんなにご心配かけちゃって……わあ、久しぶりだね、兵衛。そう、そうなの、うそみたいだけどさ。ねえ……ほんと、ありがとうね。え? 湊と博美、進の家の前にいるって? 何それ……ねえ、呼んで来てよう。うん、お願い!」
そんな調子で延々と、倉鹿の友人たちへの報告が続いていたが……俺は、そっといるかの袖を引いた。
「後ろが殺気立ってる。また家から電話できるんだし、適当なところで終われ」
「あっ、そうか。――ごめんね、公衆電話だから後ろが行列になっててさ……とりあえず切るね。また、家に帰ってから。……うん、ほんとにありがと。じゃあね」
受話器を置いたいるかは、申し訳ないというように、すぐ後ろで待っている男子に頭を下げた。
「へへ、しゃべりすぎちゃった」
「大川と日向も来てたのか?」
「進の家の前で、一時間も前からうろうろしてたんだって。入れよって進が言ったらしいんだけど、落ち着かないから外にいるって……みんな、心配してくれてたんだねえ」
「そうか。……でも、よかったな。いい報告ができて」
「うん……」
歓喜の次には、脱力が待っていた。
無理もない。半年前には無謀と言われた受験だったのだから。
いるかの気持ちは本当に嬉しかったし、やり抜くと決めた時の彼女の底力もある程度は知っているつもりだった。しかし、編入時にほとんど何の試験も課されなかったという修学院とは何もかも事情が違う。
ただでさえ狭き門の里見学習院だ。当然、いるかは公立高校も受験する予定だった。俺はどんな結果でも受け入れるつもりだったから……俺が上京しさえすれば、学校が違っても近くにいられるのだから、それ以上は望まない。――そこまで話し合ったことはなかったが、俺もいるかも同じ心境だったはずだ。
「……ほんと、あたし、受かったんだねえ……」
「大したもんだよ、本当に」
「うれしい」
「……」
「うれしいなあ……」
「……」
ここに誰もいなけりゃ、抱きしめるところなんだがな。
よくやったな、と何度も誉めてやりたい。頬を撫でてやりたい。甘やかすという行為にはほとんど馴染みがないが、今日ばかりは別だ。ただ、少しばかりの問題もある。今、この感情が行き過ぎてしまう危険だ。
実際的なことを考えよう。
何はなくとも、入学手続きの書類を受け取り――実際に提出するのは明日だった――帰宅すべく駅へ向かう。
俺は昨日から二泊の予定でホテルに泊まっていた。手続きは全部、自分一人でどうにかなる。入学金の振込みについても用意は整っているので、親父の御出座を待つまでもない。
いるかは明日、母親と手続きに行くのだと言った。
「手続きは別々でもいいんだけど、春海、夕方にはもう帰るんだよね?」
「ああ、俺は朝一で書類出すから」
「あたしも多分、午前中にはここ来るけど……」
「無理すんなよ。明日はここで会う必要もないし」
「会ったっていいんだけど、母ちゃん、春海のこと知らないからなあ……」
いるかは、口の中で呟いた。
「手紙と電話で、名前は覚えてると思うんだけどさ……よく手紙くれるのね、とか言われたこともあるし……」
「……」
明日いきなり、いるかの母親とご対面ということになるのか? そうなれば、いるかは俺のことをどう紹介するつもりなんだろう。……まあ、そんな深刻に考えることもないか。
倉鹿修学院の同級生だった友だち。鹿鳴会という名の生徒会で共に会長だった友人。今はそんなもんだろう。むしろ、友人以上の相手なのだと紹介される方が驚くし、俺もどうしていいか分からず困ってしまう。――それにしても、上京したらいずれは挨拶……のようなことをしなくてはいけないのだろうか? いるかの両親に。
どうも、よく分からない。今までずっと、学校でも私生活でも俺たちのことは如月院長が見守ってくれていた。そこから一変して、いるかの両親は俺のことを何も知らないだろう。倉鹿での、ほんの僅かな名声など武器にはならない。
「春海? どしたの」
「……」
これも試練か。
新しい局面が訪れる、新しい出会いが待っている。知らない世界が待ち受けている。でも怯んだりしない。今の俺は、新しい予感に何とも言えない身震いを感じている。……そして、これからずっと、こいつは俺のそばにいるんだ。俺はいるかの隣にいられるんだ。
「いるか」
「うん?」
いるかはとにかく、自宅へ帰らなければいけない。明日の手続きに関して母親と話すこともあるだろうし、同じ顔をした従姉妹に電話もしなければいけないと言っていた。
まさか俺の泊まっているホテルへ呼ぶこともできず――どれほど大きな歓喜でも、無謀な勇気を呼び起こすことはできなかったし、言わせてもらえば今日の俺は疚しい願いなど抱いていなかった。本当にただ、嬉しかっただけなのだ――ここで一旦は別行動ということになる。
「なに? 明日、何時に待ち合わせ?」
「そうじゃなくて……本当に、おまえ、頑張ったな。よくやった。――偉いよ」
「……」
いるかは、くしゃっと顔を歪ませた。張りつめていた糸が切れるように。
「もう、あたし、それに弱いんだよう……春海に誉められるのって……ねえ、……ほんと?……」
「本当に。おまえは頑張った」
「……」
いるかは一瞬、その小さな体の重みをすべて俺に添わせて、寄りかかった。
腕の中に包んでしまいたかったが、電車を待っている最中ではどうしようもない。
「あたし、うれしい。……ほんとにうれしい。ありがと……」
「……」
そうだ、この声。
笑顔も、今にも泣きそうな目も……このすべてが、俺の理由なんだ。
建前はいくらでも言える。親父はいずれ俺たちを呼ぶはずだったとか、里見への憧れとか、大きな場所で自分の力を試してみたかったとか。これから知り合う人間を煙に巻くことは可能だ――いるか以外には。
まあ、倉鹿の連中にだってごまかしようはないけれど。
翌日、俺といるかは東京駅で別れた。
予定では、俺と徹は三月後半に上京することになっている。少しずつ荷物の整理は始めているが、倉鹿に戻れば本格的に忙しくなるだろう。
里見受験について徹には最初から相談し、承諾を得ていた。けれど、生まれた家と通い慣れた小学校を離れることが昨日の合格発表で決定的になり、兄としてはやはり申し訳なく思う。電話ではひたすら大喜びしていたが……
東京にまでついて来てくれることになった家政婦の藍おばさんにもだ。
だけど、俺は弟を信じよう。僕も東京に行くと言ってくれた弟を。
親父はどうせ当てにならないだろうし、徹が新しい家と学校に早く馴染めるように、俺にできることは何でもしよう……
来月には卒業式も待っている。今年はさすがに、鹿鳴会の全員が三年生ということもあって歓送会の劇に縁がないのは幸いだ。
それとは別に、進たちが送別会のようなものを企んでいる節もある。詳細はまったく分からないが。
まだまだ忙しいし、慌しい。
会長の俺には役目も残っている。卒業式で答辞を読むという役目が。
「これ」
「ん?」
「倉鹿で買ってきたんだ。おまえの好きな煎餅と、どら焼き……最中と羊羹も。いろいろ箱に詰めてもらった。あと、クッキーも」
「わあ、おみやげ持ってきてくれてたの? ありがと!」
「土産っていうかさ……まだまだ早いんだけど、十四日には会えないからな……」
「十四日?」
「三月十四日」
お返しだよ、と俺は言った。いるかは途端に、居たたまれないような顔つきになった。
「だって、今年のはお店で買ったチョコだったし……まさか受験日が二月十四日なんて思わなかったからさあ……お返しなんて、もらうほどじゃ……」
「いいから、ほら」
「……ありがと」
いるかは小さな声で、「でも、あたしが作るより、お店の方が絶対おいしかったと思う」と付け足した。――何を言ってるんだか、まったく。そういう問題じゃねえだろ。でも、味なんかどうでもいいって宥めても怒るだろうしな……
「じゃあな。また電話するから」
「うん。引越しの日、決まったら教えてね」
「俺の卒業式と、徹の終業式が終わったあとだから……そうだな、なるべく早く決めるよ」
「……卒業式」
いるかは笑顔のまま、ぽつんと呟いた。
「……修学院の、卒業式かあ」
「……」
「あたしも、そこに居たかったな……」
「……」
とてつもなく大きな戦いに勝利しても、叶わない願いはあるものだ。いるかは四月、桜が咲く頃には里見学習院の入学式に出席できる。なのに修学院の卒業式には入れない。
「本当に、な」
いるかの髪に手を置いて、俺は笑ってみせた。
「修学院の皆、そう思ってるぜ。なんで如月会長がいないんだって」
「そうかなぁ……」
「アルバムは、おまえの分もちゃんとあるから。引越しの時に持ってくる」
「うん」
「……学校側が式の写真も撮るだろうから、なるべくたくさん焼き増ししてもらうよ。それでいいか?」
「うん」
「よし。それじゃ、おまえもあと一ヶ月頑張れよ。まだ終わってないんだから」
「了解! 新入生代表さん!」
やっと元気が出たらしく、いるかは和菓子の紙袋を提げていない方の手をぶんぶんと振り回して俺を見送った。――新入生代表というのは今日、高等部の事務室で入学手続きをした時に知らされたことだ。新しい学校の入学式で、俺には早くも役目ができてしまったらしい。
まあ、それは四月のこと。まずは卒業式だ。倉鹿へ戻るレールは卒業式に向かっている。
いるかの姿が見えなくなった。奇妙な既視感だった。
今度は俺が、電車で消える側なのだ。
誰かに唆された訳じゃない。誰にも、この意思を預けることはない。
自分で決めたことだ。
突き動かされる、駆り立てられる。今まで知らなかった感情に揺さぶられて、無我夢中で走らずにいられない。
だから、俺には理由がある。
生まれた町を後にしてでも、この手で掴みたいものがある。
きっと倉鹿は許してくれるだろう。そう、きっと……俺を許して見送ってくれるだろう。こんなふうに――
(あの娘が相手では仕方もあるまい。倉鹿はいつまでもこの地にあって消えることもないが、あの娘は突然、何も言わずに逃げるからのう)
白昼夢の中で、よく知った誰かの声が倉鹿そのものになった。
to be continued.