卒業生代表としての答辞は読み終えてしまった。
俺の役目は終わった。終わったはずなんだ。再び呼ばれたところで、言うべきことはもう何もない……
最後まで俺の信念は変わらないというのに。それは皆も知り尽くしているはずなのに。
壇上へたどり着いた俺を見て、如月院長は軽く頷いた。
「皆が待っておるのは、旅立つ君の言葉じゃよ」
「……」
「ほんの一言でも構わん。聞かせてやってくれんか」
「……しかし、もう答辞は……」
「君は三年間、この学校を率いて本当に良くやってくれた。我が倉鹿修学院の誇りじゃよ。そんな君に、最後の最後に公私混同をすると一体誰が責めるかね?……それに、な」
院長は身を引きざま、付け足したのだった。
「あれの気持ちを代弁できるのは、君だけじゃ」
「……」
マイクを通さない、数秒の会話だった。
俺は再び一人になり、壇上から見下ろしていた。――同期の卒業生たち、その保護者席。そして中等部の先生方を。
どこかに進がいる。一馬と兵衛がいる。
俺と同じ雪組には日向と大川が、そしてまた違う列には銀子が、伊勢が――卒業の日にまさか別れを惜しむ友人になるのだと、入学当初は思いもしなかった女番長たちが――座っている。
(やるからには負けないのがあたしの主義なんだ!)
(あんたに決闘を申し込むよ、如月いるか! あたしに勝って、鹿鳴会メンバーの資格を取ることができる?)
(あたしは絶対、サッカーはやらないよ。あんたたちが負けようがのたれ死のうが、知ったことか!)
(今までシカトしてくれた詫びは、コートで入れてもらおうじゃないか)
いつの間にか、友人の輪に加わっていた二人。
(博美のソフト部が廃部? 金がもったいないからって横暴だ! この冷血漢!)
(いやだ、あたしが投げるんだ。今負けたら、あの子たち学校中からバカにされたまま終わっちゃう。そんなの、あんまりだよ!)
(みんな、何が何でも死守するのよ! 絶対点を守るのよ!)
それまで、負け試合しか知らなかったソフトボール部。
(女子部部長は認めるわ、如月いるかは選手です! あんたって男はどこまで融通がきかないの!)
(今年はみんな、いるかちゃんに鍛えられたんだから)
(その如月先輩と試合に出なきゃ、話になりませんよ)
(ありがと、湊! ありがとう、みんな!)
敢えて、怪我人の主将を受け入れた女子剣道部……
(鹿鳴会の諸君! 思いきり稽古をつけてやってくれ!)
俺たち鹿鳴会について回想しても、結果は同じだった。いつでも、どこにでも……あいつの声が、あいつの怒ったり笑ったりする顔が見えた。
何てことだ。
今さら動じる俺も俺だ。どうして今まで気づかなかった?
何てことなんだ、思い出は全部あいつと結びついてしまっていた。まるで中学時代は十四歳から……二年生の春から始まったかのように。
あいつがいなかった頃の思い出なんて何もない。いや、何もないはずがない。けれど飲み込まれる。あいつがいた一年半の思い出に圧倒され、押し流されてしまって跡形も残らない。
(あたしはね! チビって言われるのがいちばん嫌いなんだ!)
(……春海っ!)
(転校の話、聞いたよ。おめでとう)
(だめだめ、食べちゃだめ!……自信ないんだから……)
何てことだ、如月いるか。
おまえが今この瞬間、東京でどれほど寂しい思いをしているのか、俺はやっと分かった気がする。
思い出を持て余して、ひとり泣いているかもしれない。
おまえのいない卒業式を迎えた俺たちと同じように寂しいだろう、悲しくて仕方がないだろう。
それなら、俺にできるのは――
「……少しだけ、時間を頂きたいと思います」
恐ろしいほどの静寂だった。
「個人的な話で申し訳ないのですが……僕は、この四月から倉鹿を離れます。僕にとっては今日が、修学院での最後の一日です」
誰の顔も、壇上からはっきりとは捉えられない。
親友たち……進、一馬、兵衛。
いるかの友人たち、日向、大川。そして銀子と伊勢。
剣道部、野球部の皆。雪組の同級生たち、そして、俺を会長と呼んでくれたすべての生徒たち。
「三年前、新入生ながら鹿鳴会会長という役目に就き……僕を含めた四人で、全力で務めを果たしてきたつもりです。今日という門出の日も、そして入学した年も僕らは四人の鹿鳴会でした。――けれど、卒業生の皆は……いえ、恐らく修学院すべての人が、もう一人の会長のことを忘れることはないでしょう」
担任の松平先生。今では男子、女子サッカー部になくてはならない存在となった伊勢の兄さん――伊勢先生。大勢の先生方と、如月院長。
「……彼女は今日、ここにはいませんが……修学院の卒業生にはなれませんが、皆が忘れない限り彼女は修学院の生徒だと……僕は、そう信じています。どれほどこの卒業式に出たかっただろうかと、そう思います。転校以来、その……何と言うか、型にはまらない……理屈抜きの……めちゃくちゃな言動で学校中を騒がせた彼女ですが、僕は彼女から学んだことが少なからずありました。周囲の皆もきっと同じでしょう。ご存知の通り、スポーツの才能は並々ならぬものがあった彼女ですが、才能以上に大事なこと――懸命であること……まっすぐであることの大切さ……やり抜くと決めた強さ……時には建前や理論を忘れてでも、素直になること。気持ちを受け入れること、自分の間違い、他人の間違いも認めて許せること……」
そこで初めて、俺の耳は機能を復活させたらしい。いくつかのすすり泣きが聞こえてきた。
「僕は、もう一人の会長からそれを学びました。自分だけが正しいと思ってはいけない。正解はひとつじゃない。――彼女は、進んで指導しようとする性格じゃなかった。廃部の危機に陥ったクラブを救ったのも、問題を起こして解散してしまったクラブを復活させたのも、いるかが自ら手柄を立てようとした訳じゃない。少しばかり方法が乱暴でも……ただまっすぐに、それが彼女のやり方だった。当初はあまりに方針が違いすぎて、俺と彼女は言い争いばかりしていたけど……」
思わず言葉遣いが乱れてしまった。まあ、ここに至って一人称なんて誰も気にしないだろうが。
「それでも、今、確かにこう言える。彼女は本当に立派な――我が鹿鳴会に相応しい、立派な会長でした」
また、すすり泣きが響く。
はっきりと分かった。それは大川の泣き声だった。
「……」
ひとつ呼吸をして、俺は続けた。
「但馬館と彼女は何度も戦ったけれど、勝負がついたあとは……誰も彼女を憎んではいなかった。今後も、伝統の好敵手として切磋琢磨し合える同士でいて下さい。どちらも共に武道の精神を礎とする、この倉鹿の人間として。――長くなってしまいましたが、僕の言いたいことはこれだけです。もう一人の鹿鳴会会長、如月いるかを忘れないで下さい。……いえ、わざわざ言葉にしなくても、皆が彼女を忘れないのは分かる。彼女も……」
いるか、ここにはおまえの気配が確かに残ってる。
俺の内側に、皆の心のどこかにおまえがいる。
おまえはこの町の人間だ。これから十年経っても、二十年経っても。ずっと、いつまでも倉鹿の仲間なんだ。だからもう泣くな、ひとり東京で。
俺が行く。
今すぐにでも、倉鹿の名残りを手にして俺が行くから……
「彼女も、修学院のことは一生忘れないと。――そう言っていました」
その瞬間。
誰かが合図をしたかのように、物凄い歓声が上がった。
院長の望んでいた通りの言葉だったのか、今の俺には分からない。倉鹿を離れるにあたり、山本会長が何かしら志のようなものを述べるのだろうと予想していた人も大勢いるだろう。でも、そうじゃなかった。
俺が言いたかったのは……言葉にしようのない願いだったのかもしれない。過ぎ去った時代を、眩しかった時を憶えていてほしい、と。
まだ若すぎる俺には、過去をただ愛おしむ余裕もない。現に、忘れることができず東へ走り出そうとしている。
それは誰かに煽られた願望じゃない。唆された訳じゃない。俺が望んだことなんだ。ひとつの終わりが、ひとつの始まりを作るんだ。
これで良かったのでしょうか――? と尋ねるように、俺は院長席に目をやった。如月院長は微笑んでいた。
「山本会長! 会長!」
気がつくと、拍手の渦の中。
講堂中の皆が立ち上がっていた。
「山本会長!」
「東京でも頑張れ! 如月会長とも仲良くしろよ!」
「鹿鳴会! 鹿鳴会!」
「鹿鳴会ばんざい! 如月会長ばんざい!」
膨れ上がっていくその声に、俺はマイクを通さず応えてみせた。
「――進! 一馬、兵衛! 来い!」
再び、わあっという大歓声。それぞれのクラスの列から、三人が押し出された。なぜか三人とも、不意をつかれて慌てたように目や頬を擦っている。
「おい! 耳がどうにかなりそうじゃねえか」
壇上に三人揃い、手を振って応える中で一馬が叫んだ。
「まったく、おまえ、癪にさわる奴。俺らを泣かせて、てめえだけ清々しい顔してんじゃねえよ!」
進がわめき返した。
「最後まで、春海は春海らしいってことだろ!」
「怖いくらい冷静で、滅多に顔色も変えない優等生。なあ、一馬、進。いるかのおかげで俺たちも、そうじゃない春海ってのを見つけたよな!」
兵衛まで、勢いに乗じて何を言い出すんだ。まったく。
俺は声を張り上げた。これが最後の指揮だ。本当に最後の。
「――卒業生一同、院長と先生方に礼! 三年間、本当にありがとうございました!」
拍手が、歓声が、俺たちの名を叫ぶ声が止まらない。卒業生たちは泣きながら笑っていた。松平先生が眼鏡を外し、涙らしきものを拭っているのもここから窺えた。
壇上から降りると、院長が俺たちを迎え出て――ありがとう、と言ってくれた。
こんな騒々しい卒業式はこれが初めてだ。
そして、きっと。
もう二度とないだろう。
◇
後から聞くところによると、銀子と伊勢は唇を震わせて泣くのを堪えていたようで、それでも結局泣いてしまったそうだ。
大川も日向も、式が終わったあとにクラスで顔を合わせたが、二人とも目が真っ赤だった。大川はまだ鼻をすすり上げていたものだ。
その後は、クラスが企画した送別会。雪組だけなんて反則だと、ほぼ全員の卒業生が押しかけてきた。最後に寄せ書きの色紙を押し付けられ、松平先生も一緒になって写真を撮った。院長も顔を出してくれた。
もうひとつの真相。藍おばさんと徹以外に、親父の差し金でビデオを回していた誰かがいたらしい。何を考えているんだ、いったい……
「東京ではなくて、こちらの事務所の方とお聞きしましたけどね。どうしても倉鹿に戻れないお仕事の日程なので、旦那様からぼっちゃまの撮影を頼まれたと」
「そう……」
まあ、現物を俺当人が見せられる訳でないのなら、それはそれで好きにすればいい。
三月も終わりに近づいた晴天の朝、倉鹿駅に集合した仲間たちは俺を――俺の顔を見て、仰天した。
そこまで驚かれるほど、大した変化じゃないはずなんだが。
「おまえ……大人になっちまったんだなぁ」
しみじみとした一馬の口調に、俺はつい笑ってしまった。
「何でそうなるんだ。ちょっと切っただけで」
「でも、春海」
幾分、涼しくなった俺の耳のあたりを指差しながら、進はにやりと笑う。
「おまえはさ、そういうつもりなんだろ?」
徹と藍おばさんは、もう電車の中に入っていた。
すぐに汽笛が鳴る。明日帰ってくるような顔で出発したい。これが今生の別れだなんて、ここにいる誰一人思っちゃいないだろ? そんな薄っぺらい絆じゃないだろ?
だから、俺は最後まで泣かない。
「けじめって言うと、変かな。……とにかく、そういうつもりで切ったんだろ? その髪」
「いや、昨日までは何も考えてなかったんだけどな。突然切りたくなったんだ」
あれは何かの儀式だったのか。俺の中で。
少しだけ髪を切った。
家と母を残していく、ほんのわずかの後ろめたさから自由になれた気がした。新しい生活へ飛び込んで行ける気がした。
「……」
汽笛が鳴る。
進、一馬、兵衛。大川と日向。銀子と伊勢の七人は、もう今朝は笑っているばかりだった。
こんな晴れ晴れとした春の空に涙は似合わない。
ありがとう、俺の仲間たち。俺の町。これから先もずっと、おまえが俺の心から消えることはあり得ない。
おまえの面影を連れて、俺は行く。行く理由があるんだ。あいつが待ってるんだ。
「じゃあな、春海!……徹とおばさんも元気でな!」
「いるかちゃんによろしくね、山本くん。二人とも元気でね」
「わざわざ追いかけてって、向こうでいるかに振られんじゃないよ。うまくやりな!」
なかなか縁起の悪い激励だな、伊勢と銀子。おまえらと来たら。
「二人で手紙書くよ。……じゃあ、またな」
電車が動き出す。窓越しから、進の目が揺れているのが見えた。進だけじゃない、兵衛も一馬も……
窓から手を振り続けた。速度が上がり、あっという間に友人たちは見えなくなった。
空が青い。あまりにも青い春。こういう空を青雲と言うのだろう。
電車の振動と胸の鼓動が同調する。
置いてきたものたち、昨日まで生きてきた町。どうか許してくれ。今は明日のことしか考えられない。
(待ってる。待ってるよ……)
いつかまた、東の空の下で思い出すだろう。いるかと二人で懐かしむだろう。そしていつか、俺たちは二人で還っていく。最初の場所に、出会った町に。
(東京に行くよ。きっと来年、東京に行く……)
(待ってる。春海、待ってるからね)
約束は果たされ、俺はいるかと再会するだろう。
だけど、その先のことは何も分からない――分からないから進んでいけるんだ。見えない未来へ向かって。
次に会った時のあいつは、もう泣き顔じゃない。
故郷を携えてたどり着いた俺を迎え、笑ってくれる。
それが理由だ。俺の理由のすべてなんだ。
冷静沈着だと誉れ高かった昔の俺。逸る心を知らなかった、あまりにも子供だった昔の自分は髪と一緒に切り捨てていく。
もう他の誰にも、俺の心を動かすことなんてできない。
あの小さな、恐れ知らずの……『おチビさん』が、待っている。
Special Thanks to: しがなっつ様
Dedicated this story; "REASON" to you.
Lilyco Kobayashi
2016.0321
[52回]