倉鹿に住んでた時、春海の家には何度か行ったけれど居間と縁側ぐらいしか知らなかった。お菓子を食べたり、春海と徹くんと、藍おばさんも混じって話したり遊んだり──だから、改めて春海の部屋に通されたことはない。
たまに勉強を教えてくれることがあっても、やっぱり居間だった。
当時はほとんど「部屋を見たことがない」だなんて意識したこともなかったし、部屋に入って何が見たい、何がしたいって訳でもない。それは東京の山本さん家でも同じ……のはず、なんだけど……
「広くてきれいだね、このマンション。天井も高いし」
「まあ、東京だなって感じがするけどな」
春海が肩をすくめた。
「倉鹿だと、いつも風通しが良かっただろ。縁側があったし……晴れの日は戸を開け放して、ああいうのに慣れてるから。ここじゃ窓はいくつもあるけど、地面と……外と繋がってないなあって思う」
「そっか……」
「慣れるんだろうけどさ、いずれ」
「うん……お部屋、多いね」
「三人の個室を、ってのが必須条件だったからな」
「何だか、おしゃれ。外国の映画に出てきそうな感じ」
もうひとつ空き部屋までついて、カウンターつきのキッチン、ダイニングとリビングも相当広い。東京の山本家は倉鹿とは対極の、現代的な空間の中に存在していた。
友人たちが目を疑うほど豪奢な洋館に住む少女を、上京してまだ二か月にもならない少年はおかしそうに見るのであった。
「それはおまえの家だろ」
「え? 自分ちをおしゃれだなんて思ったことないよ。三人しかいないのに、部屋が多くて掃除が大変。通いのお手伝いさんもやってくれるけどさあ、でもね……」
ふっと、いるかが首を傾げた。
「自分の部屋は自分で片づけたいし……ね、春海」
「ん?」
「春海の、部屋……」
今度は春海が少し身動ぎをした。
「春海、部屋は自分でお掃除するの?」
「……まあ、出来る限りは」
「広いんでしょ?」
「広くたって、たかが知れてる。倉鹿でも自分でしてたし」
いるかにとっては今日が二度目の訪問であったが、春海の弟、徹は不在だった。そして家政婦の藍おばさんも、二人が帰宅するのとすれ違いで買い物に出かけたのだ。
おばさんの淹れてくれたお茶も、そろそろ冷めてしまった。
広々とした──三人の家にしては大きすぎる居間はまだ、三人の新しい住人と馴染みきれないような、部屋と住人が互いに距離を量っているような、新居にありがちな何とも言えない空気が漂っていた。
違和感をはっきりと言葉で形にはできない少女も、本能ではそれを察知した。住人さえ馴染んでいない家で、訪問者が心から寛げるはずもない。
しかし、彼の部屋であれば──?
「……」
目を居間の向こうに泳がせて、いるかは皿に盛られたクッキーに手を伸ばした。
彼女の好奇心がどこへ向かっているのか、ほぼ理解しながらも春海はそれを無視せざるを得ない状況だった。
見られて困るものなど、無い──はずだけれど。
下手をすれば、いるかの自室より整理整頓の行き届いた部屋かもしれない。と言っても春海は去年の今頃、剣道部の合宿にて如月家に泊まった際、彼女の部屋を数秒しか見たことがなかったのだが。
いるかがドアを開けて、
「ここ、あたしの部屋。でも今回は、あたしも湊たちと同じ部屋で寝るからさ。え?……だって合宿だもん。あたしひとり個室つきなんて、そんなの合宿じゃないでしょ」
「あはは。当たり前だけど出てったまんまだあ……はい、終わり」
と披露してくれたのが、ほんの十秒程度だったということだ。
男だけではない。女にとっても、自室というのはきっと見られたくない空間なのだろう。ただ整っているかいないかだけでも──本棚の本が隙間なく並んでいるのと、大きく傾いているのとでは印象がやはり違う。
そんな細かいところまで春海は検分する気もないし、彼女の大雑把な性分も十分承知している。何を見せられても、恋を知った彼にとって今さら幻滅しようもなかったが、それはいるかも同じだった。
恋をしている、だから彼に部屋を見られたくない。至極単純な理由だった。方向性が真逆なだけだった。
……そんな昔のことを思い出して、春海はふうっと息をついた。
「来るか?」
「え?」
「俺の部屋、見るか?」
そう問いかけながら、ソファを立ち上がっているかの隣へ移動した。体を幾分、寄せ気味にして──意地の悪い脅しのつもりはなかっただろうが、彼は声を低くする。
「いいぞ。見ても」
「……」
いるかは声もなく、しかし口だけで笑って。
そして、首を横に振った。
目と目が合ってしまったが、少なくとも春海は逸らさなかった。真新しい制服姿の少女が、一瞬ぐらんと首を揺らして、顔ごと彼を視界から消した。
「……あの。あ、あたし、お手洗い……借りて、いいかな?」
「どうぞ」
「ん、じゃあ……行ってくる、ね」
スリッパの音がして、いるかが居間──リビングから出て行った。
春海はそれを確認して、脱力をした。
額に手を当てて、小さく笑う。笑いながら舌打ちをした。
「……あんまり舐めてかかるんじゃねえよ、男ってもんを」
先日も、この部屋で大胆にスカートを絡げていた。可愛らしい細い足だった。
「部屋が見たいって? 倉鹿と違って、外からも内からも鍵が掛かるんだぜ。俺の部屋に入ったら最後かもしれないってのに。……いや、徹もおばさんもいる家でそれは最初から無理だけど──それにしたって、自覚がなさすぎだ……」
いずれは用事が出来て、彼女を部屋に招き入れることになるかもしれない。いつまでも開かずの部屋にするより、それが自然な流れだろう。
しかし、今は……
立ち入り禁止、という見えない警告を掲げて。鍵を掛けて。
「……でも、なあ……」
思わず、深いため息をつく十六歳だった。
「ひとり暮らしじゃない以上、部屋に入れたところで──あいつにとって危ない場所にはならねえな。どうしようもない……」
──やっぱり、ずかずかと入り込んじゃいけないんだよね。
あたしだって……あたしの方が多分、きれいな部屋じゃないだろうし……あんまり見られたくない。去年の合宿はともかく、上京してからはうちに来たこともないし、それどころか母ちゃんに会ったこともないし……まあ、母ちゃんは春海の名前だけは知ってるはずだけど。
新しいきれいな家だから、お部屋も見たいな……なんて思ったのが、春海の気を悪くしちゃったのかもしれない。
ちょっと声が怒ってたし。ごめんね。
どちらの家も風通しが良かった倉鹿を思い出す。古くて大きくて日本的で、自室にわざわざ入らなくても、開けっ放しの窓から風が流れて気持ちのよかった──あの古い町。
でも、どこにいても今は春。どんな家でも、倉鹿じゃなくても、花の季節はすてきだから。
家に帰って部屋の窓を開けてみよう。
風が、春海のいる場所とつなげてくれるかもしれないね。
◇
視点が、いるか→三人称→いるかという変則的な文章になっています。
おお、久しぶりの高校生カテゴリー(1986年の家出前まで)です。お嬢、それは誤解だぞ! 怒ってるんじゃなくて誘ってるんだぞ!
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