[16回]
「あたしね、苦手なの」
わざわざ申告しなくてもわかるでしょう? と言いたげな声だった。
一枚の紙を目の前にして。
「きれいに折れないし……開けないし、形も変になるし……」
愚痴を洩らしながら、素早いしぐさで俺の手元を見る。
「ほら、これ。春海のと比べ……なくても、すぐ分かる。きっちり、きれいだねえ。指が長いから……?」
「指は関係ないだろ」
「あると思うよ」
「丁寧に折っていけば、誰だって上手くなるさ」
「だって、折り目が歪んじゃうんだもん」
「嫌なら、やめるか? そもそも、おまえが提案者なんだぞ」
「……そういうんじゃないよ。でも、下手だなあって自分にがっかりすんの」
あの嵐の日。
俺だけではなく、それは誰にでもふとした瞬間に襲い来るものだ。自分かもしれない、家族、友人のことかもしれない──『生死』という苛烈な戦いに打ち勝った、親友の妹。今では笑うことも起き上がることもできるようになった少女への千羽鶴。退院を願っての、ささやかな贈り物……
いるかは無心に折り続けている。不器用なんだよ、下手なんだよと言い訳をしながらも、山となった折り紙を前に、無心に。
「──千羽じゃないにしても、なかなか大変だよな」
友人一同ということで、かなりの大人数で分担したので数はそこまで多くない。一人あたりはせいぜい百羽だ。
しかし、小学生でも作れるとは言え、やはり得手不得手はあるものだ。
「そう……しっかり折り目をつけて、きれいに開く。紙の角を合わせて」
「鶴、むずかしい」
「覚えちまったら、手が勝手に動くけどな」
「うん、折り方はさすがに覚えた。でも、きれいにできない」
明日には徹が正美ちゃんの病室へ持っていきたいと言うので、坂本たちが針と糸を用意して1組で待機中だ。千羽鶴というものは、折るだけではなく組み立てないと意味がない。
既に大半の鶴は出来上がっている。野球部代表で(俺もだが)玉置先輩と藤吉からも届いているし、東条兄妹とは親戚関係にある加納先輩からも……
いるかが提案者だと言っても、企画をまとめたのは俺で、具体案を描いたのは──スケッチブックに──坂本だった。
「せっかくだから、色を揃えよう。きれいなグラデーションになるようにね」
ということで、俺たちの分担は赤、黄色、オレンジ(の一部)だった。
「春海、折るの早い! しかも、きれい」
「俺のことはいいから、手を動かせよ。あと少し」
「うん。あとちょっと……テスト近いのに、みんな頑張ってくれたんだもんね。明日、巧巳に渡すのが楽しみ」
俺の弟であり、正美ちゃんの同級生の徹は千羽鶴企画のことを知っているが、巧巳にはまだ言っていない。
そうは言っても勘の鋭い男であるし、何か察していても驚きはしないが。
今日も既に下校して、病院にいるはずだ。
あの日からほぼ毎日、彼は妹の病室に通っている。たったひとりの妹が生きている、これからも生きられるという喜びを噛みしめながら。
十分に理解できる、共有できる感情だった。俺とは事情が違うとは言え、巧巳たちの母親はもう近くにいない。だからこれ以上、家族を喪いたくない。
あの日、奇跡が起きたのか、必然だったのかは俺たちには分からない。神ではないから──ただの人間だから、祈ることしかできなかった。
いるかもまた、旗を振ることしかできなかった。それでも、必死に戦っていた少女に通じたのだと思いたい。
幼い体に刃を突き立てられ、それでも生きて帰ってきたあの子に……
「ねえ春海! ねえ、ほら、やっと残り一枚!」
いるかが最後の折り紙を手繰り寄せた。
「これが最後。きれいに、丁寧に──」
「……」
不器用だと本人は主張するが、本気を出せば決してそうではないと俺は思っている。現に、最初の方に比べたら形の整い方がまったく違う。
ちいさな指。
無心に、祈りをこめて、折り上げる。──文字通り、紙に乗せて織り上げる。希望と夢を。願いを、祈りを。
(生きていてくれて、ありがとう)
(元気になってね。これから、もっともっと元気になってね。いつか、みんなで遊ぼう)
その言葉を、感謝を。
「ね、ね、どう? 最後の、赤いの」
いるかが得意げに笑った。手のひらの赤い鶴は、ひとの魂に見えた。心の色、心臓の色、血の色──生きている人間の血の色にも。
そして、熱の色。愛の色……
「完成! これで終わり! 早く晶たちに渡さなくちゃ」
「ああ。じゃあ、最後の分も紙袋に入れて」
「うん」
机の上を手早く片付け、生徒会室をざっと見回す。
「よし、行こう」
三年の先輩方は、どちらも部活持ちで放課後までは滅多にこの部屋には来ない──会議などは時間内に行うので──そして玉子も今日は、女子サッカー部の方だ。
いるかの折り紙が長引くことが予想されたので、あたしだけでも行って一年生の指導はしておかなきゃと言っていた。
「よかった、ほんと良かったあ。間に合って」
「あの子が喜んでくれるといいな」
「うん。ほんとだね」
いるかの目が一瞬さまよい、廊下を見回して……スカートのポケットの中から何かを取り出した。──それは?
「こ、これね。昨日、家で鶴いくつか折ってる時に、その……ついでにね……いちばん簡単な折り方の方だけど、あの。図書室で借りた本に載ってたから……」
「……」
恐らく、折り紙をまた四等分した大きさで折ったのだろう。
ごく小さな、うすい桃色、赤のハートが……花びらのように、十ほども。
「貰っていいのか?」
「そ、そんな大したもんじゃない、ですけど……」
本を見たら折りたくなって、でも自分で持ってても仕方ないし、と、いるかが口の中で呟いていた。
「そうか。じゃあ、貰うぞ」
「ど、どうぞ。別に、何も役に立たないけどさ……」
「そうでもない。少しは自信が持てる」
「……」
いるかは、その大きな目をまっすぐに俺にぶつけてきた。ほんの一秒。
「え?……自信……? なにが?」
「だって、今までおまえから貰ったことなんかないだろ。ラブレター」
「ラ……」
ラブレターじゃない、何も書いてないし、といるかは首を振り、それから廊下を駆け出した。
「あたし、先に行くからね!」
ああ、行け行け。できれば百歩、千歩でも進んでくれたら、俺は一歩でそれに追いついて捕まえるのにな。
入学してからやっと三か月ほど。生徒会や校内のことで手一杯に見えるかもしれないが、俺はいつだって、時を待ってる。
そういう瞬間さえ来れば、どうして俺が今ここにいるのか、おまえは知ってるか?──どうして生まれ故郷を置いてきたか知ってるか? そう伝えるのに。
伝えたら、強く抱きしめて……
いや、優先すべきは親友の家族への見舞いだ。
まだ今は──抑えておこう。
それでも。
俺の手の中には、心があった。
不切正方形一枚折り──傷ひとつ無い方法で織り上げられた心が。
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時系列
高1初夏、正美の手術後わりとすぐ。(駅伝の修羅場前)