[18回]
昨日と今日では、まるで違う国に迷い込んでしまったようで。
あたしのわがままで、あまりにもぎりぎりの日程を選んでしまったものだから。おばちゃんが少し眉をひそめたことをよく憶えてる。
「これだと、あんた、次の日はもう始業式ってことになるよ。東京に着くのは夜になっちまうし──休めないだろうに、いいのかい?」
あたしは黙って頷いた。
「この日に決めても、昔から八月末ってのは台風が多いんだから、もし当たっちまえば大変だよ──そう、ちょうど三十一日と、九月一日あたりのことさ。……二百十日と言うんだよ、あんたは知らないかねえ」
◇
昨日の夜に家へ戻り、泣きながら眠ったらもう次の朝には制服を──セーラーじゃない制服を──着なくちゃいけなかった。
でも、何かを考える隙間もない方がかえって良かった。
かもめたちと再会して、同じクラスにも転入できた。それは間違いなく嬉しいことだったけれど、かもめはあたしの顔をじっと見つめて、タクマが離れた一瞬の間に言ったんだ。
──山本くんに、ちゃんと言えた?
あたしは、自分がどんな顔をしてそれを肯定したのか知らない。
言ったのかと聞かれたら──確かに、言った。でも、本当なら絶対言わないと決めていたことだったから、あたしは結局、最後まで嘘をついたことになる。
最後の最後に顔が見られて、声が聞けて嬉しかったというのも本当。
だけど、ごめんなさいという苦しさの方が大きかった。
昨日の夜は電話もできなかった、
泣きたかったから、思いきり。泣くだけ泣いたら今日、ちゃんと電話であやまりたい。
何も耳に入って来ない新学期の朝。
転校生といったって一年半前までは生徒だった場所だし、特に緊張することもない。いよいよ本格的な受験勉強が──とか、進路相談は──とか、これから大変な時期だと念を押す先生の言葉も、他人事みたいに遠く聞こえてくるだけ。
窓を見ると、昨日と何も変わらない晴れた空、まだ真夏の緑色。嵐なんてこれっぽっちの気配もない。
二百十日。
あたしの世界には強い強い風が吹いた。
昨日まで聞いたことのなかった声──泣きながら叫ぶ声がいつまでも残ってる。心に、ちりちりって音を立てて、あたしを立っていられなくする。
二百十日、もし本当に雨や風で世界が止まってしまう日なら、昨日どうしてあんなに倉鹿は青空だったの。どうして嵐が来なかったの。
何もかも雨と風で止まってしまえば、あたしは今頃、まだ倉鹿にいられたのに。
春海のいる世界に、きっと、泣きながら。
東京に帰りたくない、ずっと嵐のままでいてほしいって泣いたら、春海はどんな言葉をあたしに返してくるんだろう。
昨日みたいな別れ方をしなくても、同じことを言ってくれたのかな?
昨日のように、泣いてくれたのかな?
胸がいたい。
憎いほどの青空だった倉鹿で、あたしの上だけに起こった嵐は春海だった。──八月最後の日はそういう時だと、おばちゃんは言った。
二百十日、立春から数えて二百十日、
嵐がやってきて、花開く稲を散らされないように願を掛ける日……
あたしはまだ、晴れた空の下でずぶ濡れになっている、
あの声が振りやまない限り、ずっと、濡れたままで。
夏を終わらせることもできずに、倉鹿でも東京でもない場所に立ち尽くしてる。確かめるのが怖い、でも確かめたい。
昨日だけの言葉かもしれない。確かめるのがこわい。
でも……でも、知りたい。よくばりなあたしは願ってしまう、昨日と変わらないって答えてくれる春海の気持ち。受話器の向こうからでも、絶対に、わかるはず。
そして、言葉にしたい。今のあたしの心の中を。絶対に伝わるはず。
好きだ。
東京に行くよ。きっと来年、東京に行く。
好きだ、好きなんだ。
好きだよ……
明日のあたしは、どこにいるんだろう、
二百十日を越えた秋の始まり、なごりの嵐を抱きしめながら笑っていたい。