カレンダーをめくりたくない。破りたくない。
ずっと七月のままでいてほしい。
八月になってほしくない。
あたしは、九月のカレンダーを――今年、この町では見ない。
◇
「春海くんが玄関前に来てるよ」
おばちゃんの言葉に、あたしは跳ね起きた。
やだ、髪ぐしゃぐしゃ。昼寝しちゃってて……というか、まだ午前中で、昼ごはんまで何もすることがなくて寝ちゃってたんだけど。
「ど、どしたの? 今日なんか用事あったっけ……?」
夏休みではあるけれど女子サッカーとソフト部の練習、他のクラブの助っ人で忙しい中、今日はぽっかり空いた日だった。
でも野球部は大会を控えてて、春海は忙しいはずなのに。
「用事?」
春海は制服じゃなかった。
ということは、クラブの帰りでもないし今から学校に行く訳でもないんだ。
「うわっ、すごい陽がきつい! 中入って」
「用事……は、ないけど。――つまり……用事を作りに来た」
薄い青いシャツがよく似合ってる。こんなに暑いのに帽子も被らず、陽射しに負けずまっすぐ立ってる。……春海の近くにだけ、涼しい風が通りそうな。
「おまえ、今日……夜、ひまか?」
「え?」
「夜」
「よる……?」
ぼんやり繰り返して、あたしは春海を見上げた。
「よる……って、なんで、夜?……夜はあんまり、ひまじゃ、ないなあ……」
「……」
眉根を寄せるのは、あたしの答えが気に入らない証拠。
それとも、何か考えてるの?
暑い。家の中に逃げ出したい。
「春海こそ忙しいのに。もう明日? あさってだっけ、大会始まるでしょ」
そう、八月になったら。
もうすぐそこまで来てる――あと十二時間もない――八月。春海は忙しい。あたしも、助っ人は一段落したけどクラブふたつで忙しくなる。
もう何も話せなくなる。でも話せなくていいの、早く八月になればいい。
こんな、こんな、落とし穴みたいな瞬間に春海と二人でいたくない。
「夜になりゃ、さすがに涼しくなるから……」
「……」
「もう、明日から八月でさ。こっちは大会で忙しくなるし、おまえもサッカー、ソフトの試合って出ずっぱりで……話す時間もなくなるだろ? だから……」
「……」
「あ」
春海は、ふいに、変な顔になった。
「別に、意味なんてないぞ。夜っていうのは……涼しい方がいいだろ、それだけ。……おい?」
炎天下、あたしが気を失いかけているのかと疑うような顔が近づいてきた。
手首を掴まれて、我に返る。
「えっ、あっ……あ、ああ、すずしい……うん、夜は涼しくなるよね……今よりは……」
「……」
暑い。春海の目から逃げ出したい。
早く来て、あした。
早く八月になってよ。そうしたらあたし、隠し事がもっと上手になるから。
「で、でも、今日は、その、むり。ほら、終業式にも言わなかったっけ? 宿題早く終わらせようって決めたんだもん。クラブで忙しくなる前に、今日が最後のスパート、なんだ」
ああ、それらしい理由があってよかった。
「春海も……明日からずっと試合続いて、たいへんだね。こんな暑いのにさ、何時間も外で……」
「それはおまえも同じだろ」
「で、でも、野球の試合ってめちゃくちゃ長いじゃん。だから、あの……あついけど、体、こわさないでね。お水いっぱい飲んで、ええと……」
「わかった」
一瞬、ぎゅうっとあたしの手を握りしめて、春海は言った。
そしてすぐに離れていく。
「わかった。……じゃあ、また来月、空いた日があったら教えてくれよ」
「う……うん……」
「――おまえ……何か……」
そこまで言って、春海は続きを口にしなかった。
ひょいっと首根っこをつかまえて、いい加減に白状しろ、この前からずっと、おれに何か言いたいことがあるんだろうって怒鳴ってほしかった。
本当は言いたいことがあるあたし、聞きたいことがある春海。黙ってないで早く言え――そう叱ってほしかった。それならあたしはきっと、泣き笑いしながら全部を言っちゃうかもしれない。
とても、とても、自分勝手なあたし。
自分からは言えないの。言っちゃいけないの。
今日の夜、あたしが何をするかって? 春海、ねえ、聞きたい?
あたしは七月のカレンダーをめくるの。
破って、捨てる。
もう戻れない八月の一か月、あたしは何をすればいい?
おしえて、おしえて、教えて、春海!
あたしは泣いていいの? わがままを叫んでいいの?
言っちゃったら、もう、抑えられなくなるもん。あたしにはわかってる、これは誰にも、どうすることもできないこと。いつか来るはずの日だった。
でも先月の終わり――六月のカレンダーをめくった時は、一か月後のことなんて思ってもいなかったんだよ……
「じゃあな。宿題、ちゃんとやれよ」
「やるよ」
「……暑いよな」
「暑いね。これからもっとあつくなるね」
「お互い、何とか切り抜けようぜ。水練大会の前なら、時間もできるし……」
「うん。そうだね」
せめて、笑っていよう。
春海はさっきから――あたしが表に飛び出た時からずっと、何かを探す目をしていた。だから絶対、なにも気づかれないように。
春海にだけは秘密を見抜かれたくない。
見つけ出させない、絶対に。絶対に。
背中が遠くなっていく。
あんまり暑くて、太陽に焦がされて、あたしの目は汗でいっぱい。
こぼれて、こぼれて、止まらない。
七月が遠くなっていく。
そしてすぐ明日には、汽笛の鳴る八月が待っている。
あたしはカレンダーを破りたくない。
ずっと今日のまま、終わらないでいてほしい。
そうしたら、そうしたら。今日の夜、あたしと春海は涼しくなった鹿々川のほとりを歩く。楽しいことをたくさんしゃべって、突然春海が立ち止まって――近くに人がいない場所で――あの目にじっと見つめられて、あたしのおでこ、ほっぺたがやけどみたいに燃えるんだ。きっと。
「……おまえ、ちゃんと知ってるか?――好きだ」
「知ってるよ。好きだよ」
泣き叫ぶことができれば、あたしは、もっと。
今この一秒よりも、八月が好きになれるのに。
[23回]