[8回]
土曜日の放課後だった。
息を潜め、校舎という名の城内に隠れる影、いくつも。
今年の節分は明日──つまり日曜日だというので、少年少女たちは前倒しでちょっとした季節行事に興じているのだった。
誰が言い出したのか、たわいもない鬼ごっこ。
まず一人の鬼が獲物を見つけると、獲物も鬼の仲間となる。鬼が増えていく中、最後まで残れば勝利というものだ。
最初の鬼を除いても総勢八名なのだから、なかなか困難な鬼ごっこではあった。広大な城に規制線を設けなければきりがないということで、範囲は二年生の教室と、校舎に沿う中庭のような場所のみ。
そうは言っても、巨大な石垣などというものが存在する倉鹿修学院である。隠れる場所に困るということはなかった。
「春海はハンデありだよなあ。いっそ審判になるか?」
「もうほとんど治ったって言うのに」
年末年始の雪山ツアーで怪我した彼の足はいまだ完全ではない。しかし、もう日常的に歩くことには何の不自由もないのだと春海は主張した。
「だけど、まだ医者が大事を取っとけって時期なんだし」
「隠れて、もし見つかったら逃げ回らず潔く捕まる。それでいいだろ」
「分かった、分かった。じゃあ始めるか」
一馬と春海の会話中、博美が湊に──小声で──話しかけた。
「鬼ごっこなんて子どもっぽいこと、山本くんもやりたがるんだね。意外」
「一人で見てるなんて、つまんないんじゃない? そこまで本格的なゲームでもないんだし」
土曜の午後、帰宅するまでのわずかな時間の余興なのだ。
一馬が鬼を引き受けたので、他の八人は散り散りに逃げ去って行く。いるかは、春海の足を見た。
「走っても大丈夫?」
「全力疾走する訳じゃねえよ。──じゃあ、うまく逃げろよ」
「うん。春海も」
基本的には集団行動はなしで、ばらばらで逃げるというので春海といるかは手を振って、廊下で別れた。
逃亡時間はわずか三分。百八十秒の中で隠れ場所を見つけなければならない。
先刻から笛が何度か鳴っていた。
誰かが捕まった合図だ。
「三回目? 四回目だっけ……? じゃあ、もう鬼が四人か五人にもなってるってことか……ああ、お腹すいた……」
校舎沿いの中庭──のような場所で、いるかは脱力したように呟く。
「ここも、時間の問題かなあ……え?」
なにかの影が、と感じた瞬間に、春海が木の幹に身を滑らせてきた。
「あ、びっくりした。春海」
「あいつらの声が迫ってきたから、ゆっくり移動してきたんだ。でも、これじゃ袋小路かもな。向こうはもう、ほとんど鬼になったらしいぜ」
いるかが笑い出したので、春海は問いかけるように彼女を見下ろした。
「なに?」
「ううん、だって、みんな結構真剣になってるなあって。鬼ごっこって、スリルあるよね」
同意を求める無邪気な笑顔に、春海は苦笑いするしかなかった。
「まあ、節分の主旨からは、多少ずれてる気がしないでもないけどな」
「見つかったら豆ぶつけないとね。鬼は外!」
「福は内……か」
「お腹すいたから、降参しちゃおうかなあ。土曜日だから購買も閉まっちゃったし……ねえ、ほんとに足だいじょうぶ? 痛くない?」
「いつまで心配してんだよ。もう一か月も前の話なのに──」
春海はそこで言葉を切った。
いるかも、何も答えなかった。
何かが彼らの間に立ち塞がっていた。しかしそれは、障害ではない。揉め事の種でもない。……むしろ……
(いつか)
(いつか……言うよ)
(ねえ。いつかって、何時のこと……?)
つぼみ。
花開く前の──いまだ世界を知らない──頑なな、蕾。
約束もいまだ果たされていない。
言えば、変わる。
世界を変えることを恐れているのか、彼は。
忘れたように見えて憶えているのか、彼女は。
いつか言うよ。
……おまえに言いたかったことは……いつか……
「──そっち回り込め──」
「もう校舎にはいないぞ──」
「包囲網作れよ──そう、出口塞いで──」
「……あ、もう、ここまで、かも」
鬼たちの声は、もう間近だ。
一瞬のとまどいのあと、いるかが息をついた。
「あたしたち以外の全員だったら、七人が鬼? ちょっとこわいね」
「……」
「……」
「二人なら、いいだろ」
「……」
春海の手がいるかの細い手首を掴んで、すぐ離れた。
「あたしたちも鬼になっちゃうよ」
「そうじゃねえよ。俺たちが最後なら、二人で勝ちだ」
「……勝っても負けてもいいや。うち帰って、ごはん食べたい。もう一時過ぎてるじゃん!」
「最後はやっぱりそれか……おまえ」
「なんか、あの時と同じ……」
鬼ではなくて、恐怖は熊ではあったが。
よく考えてみれば、生きていることが不思議なぐらいの状況だったのだ。それが一か月経った今では、平和な日常の中でささやかな戦慄を欲しがる。──ただ、山もスキーも当分は御免だと、関係者一同は心底思ったのだが……
「もう来るね、みんな」
「ああ」
「春海は勝ちって言うけどさ、気分としては追い詰められてるよ」
「勝ちは勝ちだろ? ついでに覚えとけ、英語で"Fortune in,Evils out"」
「……」
鬼はここにいた、という表情でいるかは声もなく笑い、そんな自分の口に指を当てた。
「──静かに……鬼が来る……」
「吹雪の山で生き残ったんだぜ、俺たち。もう厄払いは出来てる」
心なしか、春海の口元がぐっと引き締まった。
「だから、あとは……残ってるのは……」
「……?」
「いつか……」
いるかが顔を上げるのと、鬼たちが雪崩れ込んで来るのは同時だった。
Fortune in, 福は内
Evils out. 鬼は外
二人にとって小さな災厄の芽は、本当はまだ残っていた──と言うよりも、彼女の知らない場所で芽生え始めていた。
「東になんて、行くつもりはないんだ」
今、彼が告げるべきは、その一言だったのかもしれない。