[15回]
宿題見てやるよ、と春海が言い、いるかはいかにも嬉しそうに、助かったあと呟いて笑顔になった。
そこまではいつもの通りだった。
いるかは、ふと思いついたように春海を振り返ったのだった。
「今日は、あたしん家でやろうよ」
彼と彼女は、小さな始まりの合図を交わした。
青空がきれいだった早春の日、彼らの間に小さな小さな蕾が生まれた。
まだ危うく脆い、壊れそうなほど小さな淡い思い。
会えば嬉しい。
手でも髪でもいいから、触れたい。
二人になりたい。
どんな会話でもいい、二人だけで他愛のない時間を過ごしたい。
初めての恋にただ有頂天になれる時期は短く、実は問題山積だということに少年はいずれ気づく。
現時点では、少女はまだそれに気づかない。
だからこそ少年は、少女のそばにいたいのだ。
まだもう少し、何も考えずに、自分だけの小さな蕾を見つめていたいと……
「……」
春海は正座をして、品行方正な生徒会長の顔を作る。
真正面に座しているのは、修学院の院長でありいるかの祖父でもある如月上野介だった。
「……」
いるかは着替えに自室に戻っていた。それはまあいいとして、なぜか上野介の部屋に通された春海は、少しだけ窒息しそうな気分で座っていたのだった。
(……院長は、歓送会のことも全部知ってる訳だから、今さら、その、俺といるかがどうこう……なんて許さんとか、そんなことは言わないよな……?)
もし直接的に聞かれたとしても、嘘をつく必要はない。
恥じることではないし――そもそも、全校生徒の前で抱きしめてしまった訳だから――今の気持ちを口にすることに躊躇はない。
春海はもともと、相手が大人だろうと教師だろうと意見、議論を交わすことには慣れていたし、常に理路整然とした春海の言動は学校の教師からはすでに一目置かれていたのだ。彼の態度は院長相手でも変わらない。
もちろん春海は、自分がまだ子供で、人生経験が圧倒的に足りないことは自覚している。
大人を言い負かして、それを喜びとしている訳でもない。学ぶべきところは大人に学ぶ、そして子供たちの領域の管理・統括を任されているのが生徒会長の自分だということ、それも知っている。
要するに、春海には今、彼女の祖父と二人きりになったところで、後ろめたいことは何ひとつない状態のはず――なのだ。
それでも、これほど隙のない頭脳を持っていても、やはり子供は子供だということなのだろうか。
腕組みした恰好の上野介がなぜか、若干厳しい目をしていることにも春海は気づいていた。後ろめたいことはないはずの少年も、さすがにこれでは息苦しい。
「あの……院長先生」
「……」
「……」
上野介はゆっくりと瞬きをして、春海を見た。
――やっぱり只者じゃねえな、このじいさんは、と春海がこっそり思うぐらいには威圧感のある仕草だった。
「いるかがな」
「……」
「最近は、少しは授業の内容が分かるそうじゃ」
「……」
「今まで何も分かっていなかったのかと言いたいところじゃったが、まあ、それは言っても仕方あるまい。それにしても、山本君。君に勉強を見てもらうようになって、なかなか著しい進歩だと思わんかね」
「……」
話がどう転ぶのか分からないので、春海は黙って聞いていた。
「良いことじゃ」
上野介は重々しく頷く。
「ええ……」
とりあえず、春海は同意した。
どうしているかは、着替えにこんなに時間が掛かっているのだろうと思いながら。
「やる気さえあれば、出来るんだと思います」
あいつは、と最後に言おうとして春海は口をつぐんだ。祖父の前で、孫のことを「あいつ」だの「こいつ」だのと呼んでいいのか、一瞬迷ったのだ。
――そんなことを気にするのは今さらだろう、と思いもしたのだが。
会話が途切れた瞬間、廊下を歩いてくる足音と声が聞こえてきた。
「――じいちゃん、入っていい? お茶持ってきたの」
「おお」
いるかが私服に着替え、お盆を手にして入ってきた。
「春海には宿題見てもらうから、あたしの部屋に持ってけばいいって思ったんだけど。おばちゃんが、中学三年生にもなったんだからお茶の淹れ方ぐらい覚えときなさいって言うからさあ……」
やけに時間が掛かったのは、おぼつかない手つきでお茶を淹れていたからなのかと春海は考えた。
上野介はようやく、少しだけ表情を緩め、茶碗を手にする。その時初めて、春海は深く息をついた。
一口飲んで、上野介は採点するように言った。
「おまえにしては、上出来じゃ」
「えっ、そうかなー? へへ……」
「なかなか上出来じゃろう、山本君」
「……はあ、そうですね……」
「やだなあ春海、まだ飲んでないじゃん」
「――そうですね」
いるかが照れ笑いをするが、春海は再び同意の言葉を繰り返した。薄々気づいていたが、院長は自分をからかっているか、試しているのではないか……
考えてみれば当然だ。いるかは院長の大事な孫娘なのだから。
そして、祖父の眼前で派手に抱き合ってしまったことを考えれば、この成り行きも必然と言える……
彼女の転校当初は、校内での面倒を任されただけの存在だった春海が、いつの間にか――いつも彼女の隣にいて、彼女を見つめている。
それを好ましいと思ってくれるなら助かるんだけどな、と春海は心中呟いた。
「春海、そろそろあたしの部屋行こっか」
「ああ……」
「今日の数学も英語も難しかったからさ、あれ教えてね」
「うん……」
「……」
院長のこの沈黙は何なんだろう、と春海は目を伏せたが、いるかは何も気づかずに、立ち上がる。
「じゃあね、じいちゃん。あたし、ちゃんと勉強やってるつもりだけど、成績上がらないからって春海に怒らないでよね」
「怒っちゃおらんよ。むしろ、山本君のおかげでおまえは成長しとると感心しておったぐらいでな」
「……」
いるかが急かすので、春海もそのまま院長の部屋を出た。廊下を歩く間、春海は体から力が抜けていくのを感じていた。
若者たちが去ったあと、いるかの叔母――上野介の長女――が盆を下げに来た。
「なんでしょうね、じいちゃん。何がおかしいのさ」
「おかしい?」
「そうですよ。顔が笑ってるじゃないの」
「ああ、まあ多少はな。愉快なことはあるもんじゃ」
「いるかはお茶を何度もこぼすし、急須を落としそうになるし。あの子にもそろそろ、まともな家事を教え込まないといけないねえ」
「……そのうち、いるかが自分で言い出すじゃろうて。家事だけでなく、色々とな。自分から知ろうと思わんことには、進まんこともある……」
上野介は、「少しは愉快だ」という言葉とは裏腹に、実におかしそうな目をしながら娘に言ったのだった。
「急須を落とすいるかも、無表情で焦っとるあの優等生も、まだまだ修練が足りんからのう」
*****

春休み中の話かな。
でもよく考えたら、春休みって宿題出ないんだよね。
中3の新学期すぐってことにしよう。まあとにかく、味見キスから間もない時系列で、足が地についていない時期の少年ってことです。