[21回]
――もう、何が何だか分からない状況だった。
さすが、姑息なことを考えるもんだ。
こんな下らない報復しか考えられないっていうのが、まず、情けない。 吐き捨てたくなるほど小さい人間だ。
憎むというより、みっともない、情けないとしか思わなかった。
しかし、そんな姑息な手段に陥れられた体は、さっきまでの反撃が精一杯で、もう限界だった。
これはもう本当にまずいと思ったが、記憶が途切れそうになった瞬間、誰かに抱きとめられた。
聞き慣れた声がいくつも聞こえる。
……どうなってるんだ? これは幻聴か?
……ちょっと待て。
何で、おまえらがここにいるんだ……?
◇
兵衛に抱えられて、何とかゴール地点まで行くと、いるかがゴールするところだった。
青空の下で、あいつはいつものように、前だけを見て駆ける。
無事で良かった。
あいつが無事なら、それでいいんだ。
もし根津の手下があいつにまで手を出したら、と思うと怖気がした。
よくやった、としか言えずに倒れそうになる。
頭がぼうっとして(仕込まれた薬の上に、炎天下という状況なので無理もなかった)、そのまま気を失いそうになった時、いるかが叫ぶのが聞こえてきた。
春海が好き、世界でいちばん好き!
死んじゃいや!!
いや……あのな……
その言葉自体は……嬉しいよ。
何だかんだ言って、おまえがこうもはっきり、好きだって言ってくれるのは……初めてじゃないか?
でもな、おまえさ……
そこにカメラとか、人がいっぱい並んでるじゃねえかよ……
それ以上言うな、今は言うなよ。
頼むから、そういうことは二人だけの時に言ってくれ……
「良かった、死んでなかった」
と泣きじゃくるいるかに、
「勝手に殺すな!」と答えたことだけは……
覚えている……
………………
◇
気がついたら、やっぱりそこは混沌としていた。
どういうメンツなんだ、一体。
懐かしい顔。
進、兵衛、一馬、銀子、杏子、それに日向と大川。
いるかと同じ顔、けれどいるかじゃない……
彼女とそっくりの従姉妹と、その幼なじみ。
……如月院長までいるのか? もしかして。
里見理事長……その横はもしかして私中連会長?
は? 親父もさっきまでここにいた、って?
それは知らないぞ、聞いてない……
入れ替わりにやって来たのは、傷を治療してもらって絆創膏と包帯だらけの巧巳(尤もその傷の半分ぐらいは、根津のやったことじゃないけどな)、陸上部の連中、女子サッカー部で生徒会役員の犬養、いるかのクラスの皆……
おい、ここ病室だろ!
人数多すぎるんだよ!
巧巳も同じように病室で寝てなきゃいけないはずなのに、なんで俺だけ重病人みたいな扱いをされているんだ?
「おまえは特に、念入りにやられたんだよ」
俺がそう問いかけると、巧巳は面白くもなさそうに答えた。
「根津にとっちゃ、おまえが恨みの張本人だからな」
「……下らねえ」
「まったくだ。でもな、おまえらの昔の仲間が来てくれなかったら、どうなってたか」
「……」
俺は、巧巳を見上げた。
薬の効き目はもう切れたらしいが、とにかく体が痛い。
もちろん、半分は根津の報復だが、半分は理由が違う。
もともと満身創痍だったのだ――俺と巧巳は。
「……いるかは、ちょっと待ってろ。ずっとここにいたけど、今ちょっとな、インタビューやら何やらで出てってる。まあ、登録もしていない選手が走った時点で、うちの優勝は幻だけどな」
俺が誰を探しているのか、分かりきってるって顔しやがって……
まあ、いいさ。
俺は言いたいこと、言うべきことはもう昨日、すべて彼に言った。
巧巳も本気で俺にぶつかってきた。
だから、もういいんだ。
「しかし、おまえらの倉鹿のダチって、とんでもねえ奴らだよなあ……」
巧巳が呟いたのと同時に、ドアが勢いよく開いた音がした。
「春海!」
ずっと探していた声だ。
「春海! よかった……起きたんだね」
「……ということで、俺は退場な。待合室に倉鹿の連中がまだいるから、親交でも深めておくか」
巧巳は俺にちょっと含み笑いを投げかけ、それから、いるかにも頷きかけて、病室を出て行った。
「春海……」
ユニフォーム姿のいるかが、また泣きそうな顔で俺の枕元に屈み込んだ。
「春海……」
「……見ての通り、死んでないだろ。そんな声出すなよ」
「だって」
「……」
俺は、いるかに手を伸ばした。
いるかがすぐに、俺の手を取る。
「……おまえが無事で、よかった」
「……」
「泣くなって」
「だって……」
いるかは、ふいに俺の手を強く握り、それから思わずと言ったように、その手に唇を寄せた。
「だって、こんなことになるなんて……」
「伊勢に感謝だな」
俺は言った。
「まさか、俺たちより先に、倉鹿経由で根津の企みがバレてるとはなあ……」
分かった時点で俺に連絡をして来いよ、とは思ったけどな。
伝聞で確証がなかっただろうし、まあ仕方ないが。
それにしたって、一同で上京してくるあたり本気すぎるだろ、あいつら。ついに、幻覚を見るまで朦朧としてきたのか、と思ったもんだ。
おまけに、如月院長まで引き込んで……
「進たちと話したか?」
「うん。……驚いた。まさか、進が走ってくるなんてね」
「まあ、ルール違反ではあるな」
「そうだね。でも、あたしが……里見が一番でゴールしたことは変わらないよ」
「……おまえに勝てる奴なんか、いないよな」
それは、俺がいちばんよく分かってる。
おまえはいつも、全力で走る。
理屈を跳ね飛ばすように、その小さな体の全力で。
その姿が皆を引きつける。胸を打つ。
「いるか」
「うん?」
俺は、握っていた手を動かし、いるかの頬に触れた。
「さっき、俺に言ったこと――」
「……あ、あれは……」
いるかが赤くなり、ごまかすように照れ笑いして、最後にはうつむいてしまった。
「だって……だってね」
春海が今朝……言ってくれたから、だからあたしも言わなきゃって思ったんだよ……と呟いて、俺の寝ているそばに、顔を寄せてきた。
「あたし、ほんとバカだよね。へへ……」
「……って言うか、ああいうことは、俺だけに言えばいいんだよ」
「……うん」
「……」
「好き……春海」
「……」
一昨日だったか(まだたった二日前のことなのか!)、海辺で見たくもない光景を見てしまって――そこから今日の明け方までほとんど、こいつのことしか考えていなかった。
こいつに、俺の気持ちを伝えるまでは眠れなかった。
巧巳と殴り合っている時も、あの光景が消えなかった。
俺だけの小さなくちびるが、他の誰かに奪われてしまった。
もちろん、いるかのせいじゃない。
巧巳がいるかに魅かれるのも、分からない訳じゃない。
客観的に考えたら――当たり前かもしれなかった。
そいつと出会ったことで自分が変わる、変わったことを自覚しているのなら、特別に思うことは当たり前かもしれない。
俺がいちばん、身をもって知っていることだ。
あそこで自制できたのは、ほとんど奇跡としか言いようがない。
と言っても、実は自制しようと思って自制した訳じゃないんだ。情けない話だが、ただ動けなかっただけだ。
先に行き過ぎて、後ろを振り返ったら、巧巳といるかが砂浜でのんびり座ってしまっているじゃないか。
休憩してるのか、と思ってあいつらに近づくのと同時だった。巧巳がいるかの髪に触れ、何か囁きかけ、いるかの唇に……
あんなものを見てしまったせいで、いるかに気を遣うことも出来なかった自分が嫌になった。
けれど、そんな余裕がなかったのも事実だ。
ああ、思い出したくない。
人間、本当に衝撃を受けると、一瞬だけど体が固まるんだよな……
「あたし……春海が好きだからね」
そう言ってくれると、俺もこの数日の疲れがふっ飛ぶよ。
本当に、そう思う。
おまえのその言葉だけで、もう十分だ。
それ以外は何もいらないんだ。
「……うん」
――それならもう、絶対にこれは俺一人のものなんだよな? そう思ってもいいんだよな?
そう思って、いるかのくちびるに指で触れた。
今朝も触れた、そのくちびる……
「これ、くれよ」
「……」
里見に入学して、まだ半年にもならない。
春からずっと、怒涛のように過ぎてしまった。
まあ、これで旧体制の後片付けは終わったと思ってもいいのかな。
それなら、今日ぐらいは、すべてを暑さと悪人のせいにしてもいいか? 今日だけは、彼女の顔だけを見つめていよう。
それぐらいは、許されるだろう。
9月が来れば、また喧騒の日々になるのだから。
そう、今日ぐらいは……
いるかの顔が近づいてきた。
……そう言えば、これで、二年連続なのか。
去年も、そして今年もまた、夏の終わる頃に気持ちを確かめ合った俺たちだった。
*****
これでほっとしたのもつかの間……
秋~冬になって彼女は家出してしまいましたとさ。
春海、落ち着く暇がないなあ……
※2012.7/19 加筆訂正