[19回]
お兄ちゃんは泣いた。
ぼくはずっと、その背中を見ていた。
おかあさんがいなくなった日以外、おにいちゃんが泣いたのを見たことがなかった。
でも、今、おにいちゃんは泣いている。いるかちゃんが遠くに行ってしまって泣いている……
その泣き方は、同じだった……
おにいちゃんは声を出さずに泣く。
だけど、ずっと駅のホームから、どこまでも延びる線路を見つめていたおにいちゃんは、振り返った時にはもう泣いていなかった。
おにいちゃんは決めたんだな、とぼくは思った。
もう誰が止めたって無理なんだ。おにいちゃんは、そんな顔をしていた。
おかあさんは戻ってこない。だけどいるかちゃんは――いるかちゃんは、消えていない。おにいちゃんさえ本気で思えばまた会いに行くことができる。
だから決めたんだ、と思った。
ぼくだって。
ぼくがおにいちゃんだとしても、きっと、そうするから――
◇
「……それで、ぼくたち、倉鹿から東京に引っ越してきたんだよ」
「いるかちゃんが東京に帰らなかったら、じゃあ、徹くんたちもずっと倉鹿にいたの?」
手術前とはぜんぜん違う元気な声で、正美ちゃんは言った。
「いるかちゃんがいた時から、おにいちゃんには転校の話はあったんだよ。でも、その時は断ったんだ。だって、いるかちゃんがそのあと東京に帰っちゃうなんて――ぼくもだけど、おにいちゃんも、考えてもいなかったから」
「……徹くんのおにいちゃん、いるかちゃんがすごく好きなんだね」
「うん。すごくね」
「そうなんだ。なんだか……徹くんのおにいちゃん、可愛いね」
「だって、いるかちゃんが倉鹿に来てから、おにいちゃんは……」
そう、いるかちゃんがいなかったら、ぼくも東京に来ていたかどうかわからない。正美ちゃんに会えたかどうか、わからないんだ。
おにいちゃんはずっと優しかったけど、いるかちゃんが倉鹿に来てから変わった。どこがどんなふうに、とはぼくには説明できないけど。
女の子とあんなふうに話しているおにいちゃんを、ぼくは今まで見たことがなかったし、おにいちゃんにあんなふうに話しかける女の子も見たことがなかったんだ……
ぼくが、今、正美ちゃんを見て少しどきどきしているのと同じで、おにいちゃんもきっと……いつの間にか、いるかちゃんを好きになっていたのかな。
「わたし、早く退院したいなあ」
正美ちゃんが言いながら笑った。
「退院したら、わたしもおにいちゃんの野球してるところ、見に行きたい。徹くんもいっしょに行こうね。いるかちゃんもいっしょに」
「うん。でも病院にいる間は、ちゃんと看護婦さんの言うこと聞かなきゃだめだよ」
「徹くんったら、おにいちゃんと同じこと言うね」
正美ちゃんが言うのと同時に、病室のドアが開いた。ぼくは少しびっくりしたけど、巧巳おにいちゃんだと分かっていた。
「よお、徹。また来てんのか。――ケーキの数、正解だったな」
巧巳おにいちゃんは、一目で中身がケーキだと分かる箱を持ち上げて笑う。
たたまれていた椅子を開き、正美ちゃんのベッドのそばへ引き寄せて、巧巳おにいちゃんは缶ジュースをぼくに渡してくれる。
「こないだ買ってきた紙皿とフォークはっと……あったあった」
ベッドの横の引き出しを覗き込んで、巧巳おにいちゃんはぼくと正美ちゃんにケーキの用意をしてくれた。
ぼくの春海おにいちゃんも、かなり大人っぽい人だと思うんだけど――巧巳おにいちゃんも同じぐらい大人っぽい。
そう思うのは、ぼくがまだ小さいからなのかな? ぼくが今のおにいちゃんと同じ年になったら、二人みたいに背が高くて頭が良くて、スポーツも何でもできる人になれるのかなあ……?
「おにいちゃん、ケーキすごくおいしい」
「そうか、よかったな。じゃあまた買ってくるから」
「……」
「どうした? 徹」
ふと、巧巳おにいちゃんがぼくを見る。ぼくは何でもないと首を振ったけど、ときどき、ぼくのおにいちゃんと同じような表情に見えて驚くことがあるんだ。
顔立ちは違っているんだけど――
おにいちゃんも、巧巳おにいちゃんも、弟と妹のいる「お兄さん」だから?
「おまえがほとんど毎日来てくれるから、正美も退屈しないよな」
「徹くん、お勉強も教えてくれてるの」
「なるほどなあ。――あの兄にしてこの弟あり、ってことか」
感心したように巧巳おにいちゃんは呟いた。
「おまえの兄貴も、いるかの家庭教師やってるらしいし」
「うん、ときどき家に来るよ。いるかちゃん」
「で、あいつら、本当に勉強を……勉強だけやってんのか?」
「?」
「――いけね」
巧巳おにいちゃんはしまった、という顔をして、それからごほんと咳き込んだ。何だろう? 言っちゃいけないことを言ったような……
「ガキに聞くことじゃなかったな。いやいや、おまえの兄貴は大したもんだぜ、徹。里見高等部の受験って言ったら結構な難関なのに、涼しい顔して首席入学、今や生徒会長と来たもんだ。……おまえもああいう兄貴がいると、苦労するんだろうなあ」
「……」
「まあ、でも、あいつの弟ってことは、何と言うかな……いろんな意味で素養はあるってことなんだろうな。……こんなに早く正美に目をつけるあたり、おまえもなかなかだと思ってるんだぜ、俺は」
後半はほとんど、何を言っているのか聞こえなかった。
ぼくと正美ちゃんは顔を見合わせた。
よくわからないけど、春海おにいちゃんはぼくの自慢のおにいちゃんだ……強いし、誰にも負けたことがない。
だけど本当は、この巧巳おにいちゃんにだけは一回負けたことがある、って聞いたんだ。
ぼくはもうほとんど覚えていないけど……何年か前に、一度だけおにいちゃんがすごいホームランを打たれた相手が、巧巳おにいちゃんだって。
「ねえ、おにいちゃん、明日も来てくれる?」
「クラブがあるから、今日よりは遅くなるけど。それでもいいか?」
「うん」
正美ちゃんにとっても、巧巳おにいちゃんは大好きなおにいちゃんだよね。
そう、やっぱり、きっとぼくたちは似てる。
そして、春海おにいちゃんと巧巳おにいちゃんも似てる。
ああ、ぼくも早く、高校生になりたいなあ……
ううん、中学生でもいい。早くおとなになりたい。どれだけぼくが大きくなっても、二人のおにいちゃんを追い越すことはできないけど……
「ぼくね、巧巳おにいちゃん」
「ああ?」
「中学は里見に行きたいんだ」
ぼくが言うと、巧巳おにいちゃんは椅子から身を乗り出した。
「なんだって? 本気かよ、それ」
「ほんとだよ、おにいちゃん」
正美ちゃんが笑う。
「だから徹くん、いっぱいお勉強してるんだって」
「春海は知ってるのか?」
「うん、知ってるよ。『そうか、がんばれよ』って言ってくれた」
「……いやな兄弟だなあ、おまえら」
そう言いながらも、巧巳おにいちゃんは笑っていた。そして僕の頭を軽く小突くようにした。
「入れるもんなら入ってみろよ。……まあ、それが第一関門ってことになるかもしれねえし、腕試しにはちょうどいいんだろうな」
「?」
「正美もいっしょに、なんだろ?」
言い当てられてぼくは少し恥ずかしくなったけど、頷いた。正美ちゃんは、ベッドでにこにこ笑っていた。
「だってわたし、はじめからおにいちゃんと同じ学校に行くつもりだったんだもん」
「そういや、そうだったなあ」
腕時計を見て、巧巳おにいちゃんは立ち上がった。
「もうすぐ夕食だな。じゃあ、そろそろ帰るよ。明日も来るから」
「あ、じゃあぼくも帰らなきゃ」
ぼくと正美ちゃんの――正美ちゃんと巧巳おにいちゃんの家はわりと近所なので、正美ちゃんが退院したら今よりもっと会えるし、遊ぶこともできる。もちろん勉強だって……
廊下を歩きながら、ぼくは、ものすごく背の高い巧巳おにいちゃんを見上げた。春海おにいちゃんとほとんど同じだと思う、この高さ……
「徹、ありがとよ。正美が退院したら、うちにも遊びに来いよ」
「うん、ありがとう」
「ついでに、兄貴も連れて来い。……いるかもな。正美、いるかを気に入ってるみたいだからな」
「だって、いるかちゃんを嫌いな人なんて、見たことないよ」
ぼくはそれを、何も考えずに言ったんだけど、巧巳おにいちゃんはぼくを見下ろした。それからため息をついた。
――ぼく、何か変なことを言っちゃったんだろうか?
「そりゃ名言だ。……じゃあな、徹。気をつけて帰れよ。おまえに何かあったら、俺が春海に殺されるんだからな」
「うん、巧巳おにいちゃんも気をつけて」
巧巳おにいちゃんは笑って手を振った。それにぼくも手を振って、家に帰る道を歩いていって……そしてすぐに、前を行く人に気がついた。
見慣れた後ろ姿――
「おにいちゃん!」
振り返ったその顔は、笑っていた。
よかった。笑ってる。
できるなら、ぼくはもう二度と見たくない。あんなふうに泣いているおにいちゃんを見たくないんだ。
「この時間ってことは、おまえ、また病院行ってたのか」
「うん」
「正美ちゃんはどうだった?」
「元気だよ。早く退院したいって言ってた」
「そうか」
「……」
ぼくには、強くて優しいおにいちゃんがいる。
ぼくはおにいちゃんにはなれない、ぼくはぼくだから。おにいちゃんと同じように何でもできる人になれるとは限らない。でも、目指すことはできるよね。
そうしたらぼくは、今よりもっと強くなれるかもしれない。
そしてもうひとり――
きっと、巧巳おにいちゃんも強くて優しい。おにいちゃんと親友になれるような人だから。
「徹?」
おにいちゃんが少し先を歩いて、ときどき振り返る。
「おにいちゃん、また背が高くなった? もしかして」
「そうか? 四月の測定から計ってないし、自分じゃ分からないけどな」
「どっちも高いんだよね……」
「?」
中身もだけど、身長で考えても追いつけるのかなあ、とぼくは心配になる。でもいいんだ、これから時間をかけて、ぼくは大きくなる。
きっと強くなれる。
そう、今までつらいことがたくさんあった正美ちゃんも、きっと……
「ね、おにいちゃん。今日のごはん、何かなあ」
「何でもいいよ、腹減ってるから」
「そう言えば、しばらくカレー食べてないね」
「帰ったらカレーかもな」
「カレーかもね!」
海に近い、ぼくたちの新しい家。
そこに戻る道をおにいちゃんと歩きながら、ぼくは嬉しくなって走った。おにいちゃんを追い越して、振り返る。
おにいちゃんは、やっぱり、優しい目をして笑っていた。
*****
藍おばさん「あらまあ、どうしましょう。カレーじゃないんですけど……」