[13回]
暑い、アイスクリーム食べたい、といるかが言うので、俺の家に帰る途中でアイスを買った。
徹は、相変わらず巧巳の妹のところだ。
あいつは、もしかしてあの年齢で、義理の兄貴を決めてしまったんだろうか。――真剣に考えるとめまいがしそうな構図なので、深く考えないことにした。
俺たち兄弟の世話を何から何まで引き受けてくれている藍おばさんも、いつもの買い物の時間らしい。
「アイス出して、アイス」
家に着くなり、宿題そっちのけでいるかが俺の持っているビニール袋を覗き込み、取り出そうとする。
ちょっとぐらい待てないのかよ、と思いつつ、この距離だと今度こそ髪を撫でられるかなと、ただでさえ暑い季節にもっと暑苦しいことを夢見てしまう。
正直なところ、あまり二人きりになりたくない。
いや、本当はやっぱり二人きりになりたい。でも、困る。困るだろう、普通は。そんな頻繁に、二人だけになったらまずいだろう。
俺だけがおかしい訳じゃないだろ?
いるかも、最初のうちは遠慮するような表情を見せていた。
いろんな表情を見てきたはずなのに、ああいう顔は初めてのような気がして、間近で見てしまうと――痛かった。
針だか棘だか知らないが、俺の体に居座り続けている凶器がチリチリと肌を突いてきて、痛いんだよ。本当に困るんだ。
誰もいない自宅なんて都合のいい場所、あってはいけないと思う。別に理由がある訳じゃないんだが、里見に入学してからは、いるかの家には行っていない。いるかが口にしないのに、どうして俺がそんなことを提案できようか、ってもんだ。
そもそも、俺もいるかも放課後は本当に忙しい。
生徒会の会議やら書類やら、行事の采配。教師との連絡係。まあ、いるかがまともに生徒会の仕事をしないのは仕方ないとして、それから部活に入る。
俺もいるかも一年生の身でレギュラーになったので、生徒会との掛け持ちはなかなか本気で忙しい。
(倉鹿でも同じことをやっていたはずなんだが)
今回はさすがに、入学して半年も経たずに生徒会長になりました、ってのは予想外だった。
生徒会から声が掛かって応じたのは確かだが、学校側とだけ仲良くするつもりなんてなかったし、知りたいことを調べるために潜入したようなもんだった。
つまり、今日みたいな日が珍しいのに、そういう日に、俺の家に誰もいないってのはなあ……
まあ、いるかが遠慮していたのは本当に、最初だけだった。さすがに毎回、誰もいないなんてことはあり得ない。たいていは徹やおばさんがいて、それは倉鹿とまったく同じ環境だったので、いるかが慣れてきたってことだろう。
それはそれで、いいことだ。
いいことなんだが……
「早く食べないと溶けちゃうよ」
「それ食ったら、宿題だぞ。あと予習」
「えええー、予習って!」
「前もって少しでも内容が分かってりゃ、授業の時に楽だから。……聞いてねえな、おまえ……」
そう言いながら、いるかをじっと見ている自分に気付く。
現状、俺にできること。してもいいと、暗黙の了解を得ていることは、抱きしめるかキスをすること、ただそれだけだ。
だから、こんな生殺しの状態があと数年も続いたら、そのふたつに関してだけ、技術向上はするかもしれないな。
こいつがちゃんと、向上していると認識してくれるかどうかも怪しいが……
……まあ、いい。
今は忘れよう。学生の本分を果たすべく……
「もう、食べないんだったら、冷凍庫に入れとかないとダメじゃん」
いるかは俺の分のアイスを手にして、ごく自然に、うちの台所に入っていく。
帰ってくると、俺の分も合わせてコップを持ってきている。
「水がいい? 冷たいお茶もあるみたいだね」
「あ、うん。おばさんが麦茶作って冷やしてくれてんだよ」
「じゃあ、お茶のポット持ってくるね」
「……お茶の姉ちゃんだもんな」
俺がぼそっと呟いたのを、いるかは台所で聞いていたらしい。
「もうバイトは終わったっての。――はい、お茶」
俺のコップにお茶を入れる、ただそれだけの小さな女らしい所作も、今の俺には困った目の毒だった。
いるかはまったく自覚していないから、自分が今「ちょっと女らしい仕草をしている」とは思ってもいないだろう。
別に、日頃まったく女らしくない訳でもないしな。
言葉遣いは乱暴な時も多いが、基本的にこいつの気性は、異常なほど男勝りっていうタイプじゃない。――俺の目から見れば。
ごく普通に、こいつは女だ。
女の持つ凶器を、こいつだってちゃんと持ってる。持っているという自覚がないだけで……
――って、俺は何を考えてるんだ。
勉強だろ、勉強。
と思った瞬間、いるかが不安そうな声を出した。
「ご、ごめん。ごめん、ちゃんと勉強やるから」
「え? 何をいきなり?」
「えー、だって、ちょっと怖い顔してたからあ」
怒ってんのかなって……と、いるかが俺を伺うように言った。――何だかおまえ、親の顔色を伺ってる子供みたいだぞ。
それにしても。
俺が怒ってるって?
誰に怒ってるんだ?
おまえに怒ってるだって? そんなはずない。
怒っていいのはおまえの方だ。俺に怒っていいのはおまえなんだよ。そう、今この瞬間も「怒られてもいいから触れたい」なんて思ってる俺に、思いきり怒っていいんだよ、おまえは。
……だめだよな。
うん、却下だ、却下。
初心に戻ろう。勉学に励もう。
学生の本分を……
「うわっ、むずかし……」
伏し目になって教科書と格闘している、その吐息。
「えーと……」
ため息のような――実際にため息ではあるんだが――小さな声。
間近で聞くのも見るのも、きつい。
こんな修行も、男の長い人生の中で……まだ未熟な時代には、どうしても必要なことなのだろうか。
とりあえず、今の俺が苦行を強いられているのは間違いない。それは認めなくてはいけない……
「……ねえ、春海ぃ。ごめん、ここ分かんない……」
と、いるかが身を乗り出してくる。
「どこだ?」
「あのね、ここ……って、え、春海なにこれ!?」
何を見つけたのか、いるかは驚いた顔で俺の開いている教科書を覗き込んできた。
「もう2学期の勉強やってんの!? うっそお! すっごい」
「2学期の最後あたりかな」
「……すごい」
いるかは繰り返して言い、それからふと、長いため息をついた。
いかにも意気消沈しているという風情だった。
「……すごいなあ、春海。あたしなんか今やってることもよく分かってないのになあ」
「……」
「ごめんね、いつも付き合わせちゃって」
「なんでそこで謝るんだよ?」
俺が言うと、いるかは頭を掻いた。
「だって、あたし、授業についていくだけで必死でさ。春海に見てもらわないと、テストもやばくてさ……」
「……そういう言い方すんなよ」
おまえに似合わないから、やめろよな。
迷惑だなんて思ってないのに。
「おまえがどれだけ頑張ったのか、俺はよく分かってんだから。頑張ったから、合格したんだろ?」
「……」
いるかが、ちょっと笑った。
「だからさ、ちゃんと進級してほしいし、卒業してほしいんだよ。……家教は俺が好きでやってんだから、気にするな」
「……うん」
頑張る、といるかは言った。
「そうだよね。せっかく入学できたんだから、ちゃんと卒業しなきゃ。春海と一緒にいたいから、受験も頑張ったんだし」
「……」
今度は俺がため息をつく番だった。
今、殺し文句を言ったことすら自覚してねえだろ、こいつ。
計算なんかないんだよな、本当に……
時々、困る。
こいつの、こういう部分に振り回される。
「……暑いな、ちょっと」
やれやれだ。
気温のせいだけじゃないよな、この熱さは……
と、俺がネクタイをゆるめた瞬間だった。
別に、見張ってた訳じゃないし、反応を試した訳でもない。けれど、俺は見てしまった。
いるかが一瞬、びくっと身動ぎをしたのを。
「……うん、暑いね」
その声にはまだ、俺の探している合図は聞こえてこない。
まだそれは、遠くの空でかすかに響いているような、そんな淡い、錯覚のような音でしかない。
でも……
「制服ってさ、首の周りが苦しいよね。夏は暑いし。セーラーはそうでもなかったんだけどさ……あたしもリボン取りたいなーなんて……あはは」
口ではそうは言っても、いるかは何もしない。
笑いながら教科書に目を落とし、しばらく俺を見なかった。
俺も、何も言わなかった。
こいつにしては、ぎこちない笑い方だったから。
こいつのリボンはまだ、こいつの首を護ってゆらゆら揺れている。でも、今はそれでいい。
俺とこいつの間には、見えない檻がある。
俺は、まだ開かない檻の中にいる。
考えてみれば、奇妙な話だ。
キスしようと思えばできるのに、檻があるなんて思うのは。
鉄条網かもしれないし、茨の棘だらけの檻だろうか。
何にしたって、俺はまだその囲いを破れない。
俺だけではどうにもならないからだ。
俺ひとりで開いても意味がないから、自分の意思でここに留まるしかない。
でも……
少し驚いた。
まだ目に見えない向こうの空では、稲光とまでは行かないけれど、不穏な音が聞こえ始めているのかもしれない。
まあ、だからってどうにもならないんだけどな。
意識されていることが分かっても――分かったなら余計に、何もできねえよ。
こうなると、その後すぐに藍おばさんが帰ってきたのは有難かった。
そのあと徹も帰宅した。
予想通り、徹は「巧巳お兄ちゃん」と病院で会った、と嬉しそうに言う。
「ここから家も病院も近いんだから、巧巳も来ればいいのにね。ねえ春海」
「ああ、まあな……」
「面会時間ギリギリまでいるんだって。巧巳お兄ちゃん」
「そっかあ。平日は放課後しか行けないもんね。巧巳もクラブあるし」
そこに、おばさんがおやつを運んできてくれて、いるかと徹が同じ顔をして喜ぶ。
俺は、心の中でほっとしていた。
二人きりでいるのは、やっぱり……困る。
「じゃあな、気をつけて」
「今日はありがとね」
いつものように、駅まで送っていく。徹とおばさんのおかげで、駅までの道は気まずくも何ともなかった。
「じゃ、また明日ね」
気まずい思いをしたい訳じゃないが……
これぐらいはいいんじゃないか、と思いながら、改札に向かおうとするいるかに一瞬近づいた。
いるかはまた、身構えするような気配を見せる。
「じゃあな、おやすみ」
……これじゃ、何もできねえよ。
俺の言葉にちょっと安心したように笑い、いるかは改札の向こうに駆けていった。
「もう電車来ちゃう。じゃあね、バイバイ」
改札の向こうが、あいつを護る世界なのかな。
俺は、こうして消えていくあいつを見ているだけ。
手を振るだけだ。
いつか二人で通り抜けることができたら、いいな。
俺に分かるのは、今はまだその時じゃないってことだけなんだ。二人きりになりたい、でも、なりたくない。
矛盾するけど、結局はどちらも同じ。
あいつだから、そう思うんだ。
この檻の中は息苦しい。
でも、鍵を掛けたのは俺自身だ。
だから、今はまだここにいる。
鍵を掛けたのは俺だけど、開くことができるのは俺じゃない。だから……
だから、俺は待ってるよ。ずっと。
いつかおまえが解放してくれるのを待ってる。
おまえはきっと、俺の好きな笑顔のままで、俺を解放してくれるから。
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このブログの最初の方(5月下旬あたり)に、「春海の耐久レースをシリーズ化したい」ってなことを書いたんですが、夏もようやく終わるので、そろそろうちの春海さんには落ち着いてもらいたい。
ということで、「こんなのは我慢のうちにも入らないよ」っていうお話でした。
時系列で言うと、6巻の正美手術後あたりの話になるのかなあ。(手術後~駅伝前)
ところで里見の女子制服のあのリボン、正式名称は何て言うんでしょうか?
ああいう形状のリボンタイって、リアルでは見たことないんです。 最初からリボン状になっている訳でもないし(5巻扉絵で、リボンの結び目が見える)、ネクタイとは明らかに広がり方が違う。プリーツがありそうな布質に思える。
私は中学時代はセーラー、高校はブレザー(細いロングリボン)だったので、里見のあのリボンはけっこう謎です。
プリーツ入りのスカーフを結んでいる、という感じに思えます。