[14回]
これは予想される症状だったので、驚かない。
棘に刺さったらきっと血を見て、痛みを感じ、傷口は腫れる。運が悪けりゃ、毒は全身に回ってしまう。
でも、驚かない。
容易に想像できる事態だったから。
あの時から、自覚していた。
たった一言、名前を呼ばれただけで自覚してしまった。
泣きながらしがみつかれて、あの時からずっと毒の痛みに耐えている。――でも表向きは、何事もなかったかのようだ。
あいつも俺も、普通に口を聞き始めた。
すぐに、元に戻った。
普通に話して、笑って、時々は衝突して。
大きな目、くるくる表情の変わる目。
この目が俺だけを見ていたあの瞬間。
涙で潤んだ大きな目……
毒はとても順調に、俺を侵略し始めていた。
でも――驚かない。
棘に刺された時、痛かったからな。
あれだけ痛けりゃ、毒も回るさ。
だから、驚かない。
俺の従姉妹が思いがけず登場して、毒の回りが早くなった。あいつの反応がどうしても目の端に映ってしまう。
見なかったことにするのは、さすがに無理だった。
だけど、正面切って質問する訳にもいかない。
きっと笑ってごまかされてしまう。
あるいは、無言で固まってしまうかもしれない。
どちらにしても、勇気のいる場面になってしまう。
――ごまかされたら、俺はあいつに「笑い事じゃない」と言わなければいけないし、硬直されたらもう一度、自惚れのひどい質問を繰り返さなきゃいけなくなる。
「おまえ、嫉妬してくれてるのか?」と。
そんなこと、どういう状況なら言っても許されるんだ? 数学と違って曖昧な方程式、はっきりとした数字で割り切れない、子供の稚拙な計算。
いつまで経っても言えないまま。
偶然とは言え、いるかの体に覆い被さって、今までにない距離で見つめあってしまうという、およそ順番の入れ替わった経験もしてしまった。
驚いて、大きな目をもっと大きくを見開いている顔。
思ったよりも長い睫毛。
目の前にある、そこに唇がある……いや、何よりも、この体勢がまず普通じゃない。
「春海……」
酒が入っているせいか、いるかの声がいつもより細く、気弱に、小さく聞こえた。
「ごめん、支えきれなくて……」
「う、うん……あの……」
当然のことながら雪は冷たかったが、その冷たさが有難かった。下が雪じゃなかったら、正気に戻れなかったかもしれない。
「春海……」
知らなかった。
今まで知らなかったんだよ。みんなが俺のことを春海と呼んでいるのに――女子の大半は「山本くん」なんだが――たった一人だけ、その一言だけで俺を打ちのめしてしまうような存在があるってことを。
何もかも初めてなので、俺も正直、どう対処していいのか分からないことが多すぎる。
答えの決まっている方程式なら、どんな難問でも解く自信があるのに、こんな面倒で曖昧で、答えの出ない場面もあるんだな。
院長の困った孫娘、騒ぎばかり起こす転校生。
何だか前より、学校が賑やかになった――そんなことを、従姉妹あての手紙に書いた気がする。
おまえって何なんだ、俺の……
どうして、気がついたらこんな近くにいるんだ? 今だって、少し腕の角度を変えるだけで、俺はおまえを……
おまえが一年前にはいなかったなんて、信じられない。次の春でやっと一年にしかならないなんて、信じられない。
一年も経たずに、どうしてここまで俺を壊してしまえるのか。たった今、腕を動かしたい。その小さな体を掬い上げるようにして、確かめてみたい。
また、棘が突き上げてくる。
分かってるよ、自分の望んでいることは。
でも、だからってどうしようもない時と場合があるだろう。まだ早い、まだ何も伝えていない……
ふいに、いるかは身を起こそうとして、盛大に顔をしかめた。
腰が抜けた……と言ったので、それを何とか引き起こす。部屋に帰っていく後ろ姿を見届けて、溜まっていた息をようやく吐いた。
明日、顔を合わせても普通に笑える自信はある。
だけど今は、もうしばらくここにいようと思った。
寒さに震えるぐらいじゃないと、痛みも熱も引いてくれない気がした。
さっきまで感じていた温度と吐息。
確実に全身を回る毒、特効薬はどこにある?
その答えを、俺はもう知っている。
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春海の一人称ものは、「棘」だの「檻」だの「毒」だのと、物騒な言葉が並ぶなあ……なぜだ。
でも「Poison」ではなく、あくまでも「毒」なのです。
余談ですが、原作の春海こえええええと本気で私が思ったのは、6巻の「どけよチンピラ」でした。
あれよりも本気で怒り沸点だったと予想される巧巳とのタイマン、いったいどんだけ怖いんだろうなあ。
よく考えたらあれって、まさに毒(クスリ)を盛られた春海なんていう、原作唯一の特殊設定場面でしたよね。