転校してきて早々、学校中を騒がせてばかりの鹿鳴会の会長が花壇のそばに屈み込んでいる。
顔が見えない。
あれは、まだ緑萌える五月のこと。
花壇のそばで、あいつは何を考えていたんだろう。
「まだ帰ってなかったのか。何してるんだ?」
「……」
今日は――珍しく――仕事もせずにさっさと下校しやがって、という言葉は必要なかった。まあ、ただの偶然ではあるのだが、書類書きや整理、会議といった務めは何もなかったからだ。
そいつは俺の言葉に反応して、頭を動かした。
「……ああ、春海か」
いつもと口調が違う気がする。
どうして屈み込んだままでいるのか、分からなかった。
「何もしてない」
「だったら、帰れよ。今日は……仕事もないしな」
少し奥まった場所にある、小さな花壇。
この学校は城みたいな建物で、校舎も庭もやたら広い。どの季節にも花が咲くように造られているらしかった。――みたいな、ではなく、本物の城と呼んでも差し支えはないだろう。
桜は散ったが、今が盛りの花は多い。
そのひとつが、青や紫の小さな菊……
でも、この女は花を見ていない。――と思ったその時、如月いるかが花壇のプレートを指差した。
「これ」
「ああ?」
「これ、なんで、こういう名前なの? 知ってる?」
「名前の通りさ。昔、島流しにされて都を懐かしんだ帝が、その花を歌に詠んだんだ」
「……」
「昔の話だから、もちろん、都っていうのは京都のことだぜ?」
どうせそんなことも知らないんだろうと、俺は少し傲慢な物言いをしたに違いない。けれどいるかは、相変わらず屈み込んだままだった。
まるで、途方に暮れた子どもが膝を抱えて泣いているようにも見えて、俺は続きを言えなくなった。……泣くって、どうしてだ。転校以来、騒動ばかり起こしているこいつがどうして、そんな……しおらしく……女らしい、とでも言うのか……まるで女みたいに、花を見て泣くんだ?
「京都か。あたしには関係ないなあ」
やっと立ち上がったその顔は、別に、泣いてもいなければ目が腫れていた訳でもなかった。
「帰ろっと。今日はソフトもないし」
「……どうしてクラブがないのか、ちゃんと分かってるのか? 中間試験前なんだぞ」
女子ソフトボール部を初めての勝利に導いたのは、確かに見事だった。大したものだと思う。しかし、こいつは我が倉鹿修学院の校是である『文武両道』とは程遠い……
「おまえも、成り行きとは言え一応は鹿鳴会会長なんだからな。みっともない成績だけはやめてくれよ」
「はいはい、はい。まったく、うるさいなあ」
「京都じゃなくて、東京のことか?」
何気ないふうを装って――なぜ装う必要があったのか、今思えば自分でも奇妙なことだった――俺は聞いた。
「もしかして、ホームシックってやつか。都から遠ざけられた……ってところだけは、帝と同じだよな。京じゃないにしても」
いるかは黙っていたが、やがて花の名を読み上げた。
「『みやこわすれ』」
地面に置いてあった鞄を取り上げ、いるかは駆け出す。
「あたし、帰る。じゃあね」
憎まれ口もきかないで、東から来た女は消えていった。――残された俺は、なぜだか居心地が悪かった。
いつものように口答えすればいいものを、どうしてこういう時は黙ってるんだ。泣いていないのに、泣きそうな顔をしてるんだ?
まるで――そう、まるで、どこにでもいる普通の女みたいに……
家が恋しいんだろうか。
親に会いたいんだろうか。当たり前かもしれない、まだ中学二年生で、親と離れこんな田舎に転校させられて――話の端々から察するに、祖父である院長が強行したのだろうし――ひとりにされて。
東京に帰りたいのか、と聞けばよかったのだろうか。
あいつが帰れば、修学院はもとに戻る。静かになる。前代未聞の二人の会長なんてことも、歴史から抹消される。
まだ五月だ、まだ間に合う――まだ……何が? 何に間に合うんだ?
帰るなら帰れよ。
帰りたいなら、帰ってしまえ。
華やかではないけれど、倉鹿は良い町だ。東京から来たあいつにはどれだけ辺鄙に映っているのか知らないが――田舎だけれど、いいところだ。
気に入らないのなら帰っちまえ。
誰も、今なら、引き止めない。 仕方ないと諦める。俺たちにとっては、ここが都なのだから。
ふと花壇に目をやった。紫の花が揺れていた。
――都だと思えないなら、帰っちまえよ。
そうだ、その方がいい。あれは調子の狂う相手だ。今までに見たこともない女だ。しかも、王座まで半分盗まれて。
早く東に帰っちまえ。俺だって、専制君主に戻れてほっとするぜ。
◇
「去年、ここで泣いてただろ?」
首を横に振って否定する女は、もう泣いていなかった。
「あたしが? なんで?」
「この花見て、泣いてただろ」
「泣いてないよ。きれいな花だなあって見てただけ」
また巡ってきた五月、同じ花のようで去年とは違う花が咲いていた。
人間の目には同じに見えても、そうじゃない。俺といるかが、もう去年の二人と同じではないように。
「都忘れ、だったよね。……でも、あたし、都に帰っちゃったし」
剣道部合宿のことだろう。声が笑っていた。
「京都じゃないけどさ。それで、また倉鹿に戻ってきたんだから……あれ、どっちなんだろ。あたしにとって、『帰る』のって……東京に戻る。倉鹿にも戻る。あれれ?」
この花壇が人通りの少ない場所にあってよかった。
俺は、いるかの頬に触れた。
「一度帰って、里心がついちまったか?」
「さとごころ?……ちょっと、あの、春海……どしたの。目が、こわい」
「……」
まあ、そりゃあ、そうだろう。
あの豪奢な家に、同じ顔をした従姉妹や親しい友人が大勢いる東京に戻りたいと言われたら、俺は何も答えられないから。
「き、きれいに咲いたね……学校中で、これが咲いてるのってここだけなんだよね……あたし、倉鹿に来てから花の名前いっぱい覚えたよ。湊と博美が教えてくれるから……どうしたの、春海?」
おまえにとって、都はここだと言ってくれよ。
倉鹿だけが都だと。
青い花、紫の花……
その名の通り、忘れてしまえ。
東の都のことなんて一生忘れてしまえ。ここにいてくれ。六月になっても、七月になっても――夏が過ぎ秋になっても、ずっと。
不可能なことだと分かっていても、願わずにいられない。王座からこいつを追い払いたいと嘯いていた去年の俺は、一体どこへ行ってしまったのか。
「――春海こそ、東京に行っちゃうって思って、あたし……泣いたのに」
肩を抱くだけで我慢しなければいけなかった。
「おかしいね。東京から来たのはあたしなのに、春海が行くのは……いやだった。怖かった」
「……行かねえよ」
「うん」
「おまえも……」
いるかが俺を見上げて、笑った。
だから、それ以上は口にしなかった。
自分勝手な言葉を飲み込んだ。
遠い都を忘れてくれ。
来年も咲くはずの、この花の名のように。
[21回]