[30回]
――舞台が終わったあと、喧騒の楽屋から呼び出されて廊下に出た。
そこに但馬館の平賀会長がいた。
「あの、山本会長……平賀さんに、ぜひ会長を呼んでほしいって言われたんで」
舞台スタッフを務める二年生が恐々と言いかける。
「ああ」
俺は頷いた。
「ありがとう。俺も、舞台が終わったら彼と話したいって思ってたから」
スタッフはほっとしたらしく、小走りに駆けていった。まだ着替えもしていないが、こういうことは思い立ったら即、行動に移すべきだ。
こんな日だから……
今日は本当に騒々しい日だったから、何が起こっても不思議じゃない。
「……最後まで見たのか? 舞台」
「ふふ。実に感動的だったよ、特にラストシーンがね」
「……」
マリア、あるいはいるかのアドリブのことを指しているんだろう。平賀は眼鏡の蔓を上げながら、俺に笑いかけた。
「ああいう相棒じゃ、君の手に負えなくても無理はないな」
「……」
「今日は、うちの連中が申し訳ないことをした。生徒会長として謝らせてほしい」
平賀は――こういうところが会長として人望があるのだろうな、と思わせる――憎い仇のはずの俺に、頭を下げた。
いつもは何かと張り合い、お互いを目の仇にする修学院と但馬館の生徒会長同士だった。会うたびに嫌味の応酬が当たり前だったし……去年、女子サッカー部問題のことで俺が直談判に行った以来だったか、二人だけで話すのも。
「ライバル同士だと言ったって、今日のことはやり過ぎだ。逸脱行為だよ」
「……」
「人質を取って如月くんを誘き出したって言うんだからな。悪気がなかったでは済まされん」
「今日のことは、但馬だけじゃなくてこっちにも問題があったんだ。だけど何とか収まった訳だし、できるなら穏便に事を運んでほしい。修学院の方でもそうするつもりだ」
「――」
平賀は俺を見た。
「以前は、いかにもエリート然として態度も言葉も棘だらけだったのにな。山本」
「……」
「それが今じゃ、あのどうしようもない連中のことまで考えてくれるのか? 駆け込んできた時のおまえは恐ろしかったぞ、鬼気迫る顔をして……いや、変われば変わるもんだ」
「……だったんだ」
「え?」
俺はもう一度、小声で繰り返した。
「俺の勝手な八つ当たりもあったんだ。何と言うか……おまえも聞いたと思うけど……東京がどうこうと色々あったから……だから、それは……済まなかった。俺も謝る」
俺は思いきって、右手を差し出した。
驚いたようだったが、平賀もすぐにそれに応じた。
恐らく、長い好敵手としての歴史上で、但馬館と修学院の生徒会長二人が握手したのは初めてだろう。まさかこんなことが起きるとはな――
二月からずっと周囲が騒々しくて、心中でも穏やかではいられなくて、泣いているあいつの姿が頭から離れなくて、強引に転校話を進めていた親父に腹が立って――
それでも、それがこんな形でうまく収まってしまうとは。
一ヶ月前には予想もできなかったことだ。
いるかがいなきゃ、こんな展開にはならなかったような気がする。あいつはいつも全力で戦って、但馬館を倒してきたけれど恨まれてはいなかった。
しかし今度のことだけは……スポーツと関係のない場で、女相手に姑息な真似をした連中に俺は本気で怒ったけれど、それでも最後には、嫌な後味を残したくないと思えるんだ。
不思議だ、本当に。
これは全部、おまえの力なのかな。いるか……
「まあ、来年もうちと何とかうまくやってくれ。僕はお先に、高等部へ行くけどね」
「ああ……そうだったな」
俺も、年上の先輩に向かって大概えらそうな口を聞いているんだなと、そんなことを今さら反省してみた。まあしかし、両校の生徒会長という立場だから仕方ない部分が大きい。
そもそも俺も、一年二年の年の差なんてあまり――今まで――考えることもない、傲岸不遜のガキだったからな。……それは今でも同じか。
「如月くんに、済まなかったと――それから、鹿鳴会の皆にもよろしく伝えておいてくれ。いい稽古だった」
「ああ。……四月からはもう会うこともないだろうし……元気で」
「なんの、高等部に上がるだけさ。元気でな、山本」
平賀はまた眼鏡を指で持ち上げて、小さく笑った。
そして、廊下の向こうへ去っていった。
「……」
「春海?」
楽屋口から出てきたらしい。
まだ少し怯えているような、半信半疑といった響きの声がした。
振り返りたくて、でもしばらくはその声を反芻していたくもあって……
「春海」
俺は振り向いた。小さなマリア……が、そこに立っていた。
「うん」
「平賀会長……だったの?」
「ああ。おまえに謝っておいてくれって」
「……」
いるかは俺を見上げて――もう髪は、結わえていたリボンも外れてもとに戻っていた――心配そうに言う。
「あのね……春日丘さんのこと……あんまり怒らないで」
「分かってる」
「……」
「……」
俺はいるかの手を掴んだ。
そう、今日はこういう日なんだ。
今言わなきゃ、いつ言うんだ? 今じゃないと意味がない、そんな日だから。
「行かないから」
「……」
「ここにいるから、絶対な」
「うん……」
やっと、本当に、心から安心したようにいるかは笑った。
すぐそこに楽屋があって、うるさい奴らがみんな待ってる。だから今は、伝えることしかできないけれど――
本当なら、今すぐ……
もう一度、もう一度抱きしめたいんだけどな……
「へへ……あたし、髪ほどいただけだし、春海もメイク落として着替えなきゃ」
「そうだな。もうこんな時間になっちまったのか」
「だって、始まったのが遅かったしさ……」
「七時前ぐらいだったっけ」
「あれ、六時半ぐらいじゃなかったっけ?」
いるかの背中を押すようにして、楽屋へ帰る。
皆の笑い声、聞きなれた声が耳に飛び込んでくる……
あと一歩でその中に入る、というところで、最後にもう一度だけ呟いた。
「俺は、ここにいるよ」
まだほんのり紅いくちびるが、はにかんだように微笑んだ気がした。