物心ついてからずっと、頭の良い子、優秀な少年だと思われていた。――それは今に至るまで。
何をやっても人並み以上で、どんなことでもそつなくこなし、口も立つ。教科や種類を問わず勉学、スポーツは得意だったし、目に見える結果が得られるので自分でも好きだった。
もちろん彼は相応の努力をしたのだが、人に知られるのは嫌だった。
そんなこんなで、中学生になる頃にはすっかり『文武両道』の見本のような少年が完成した。倉鹿市の子供なら誰もが憧れる修学院に君臨し、ある種の権力さえ牛耳り――
傍から見れば傲慢に見えたかもしれないし、実際そうだったことは否めない。
突然に母がいなくなったやるせなさ、辛さを埋めるには体を動かすことしかなかった。
疲れ果てて眠れば泣かずに済む。そして兄として、たったひとりの弟の模範にならなくてはいけない。何よりも、地元の名士である父の名に傷をつけることなど許されない。
父も母も、息子に何かを強要したことはなかった。けれど口に出さなくても察せられた。子供は、大人が思う以上に敏感なものだから……
鹿鳴会という名の生徒会室が王座の、可愛げのない中学生だった。
あの頃、ほんの少し退屈だということを自分でも自覚したくなかったのだ。何をやっても人並み以上にできてしまう――それが当たり前になり、心を動かされなくなってしまった自分と対峙したくなかった。
心を躍らせる方法を知らなかったし、それまでの世界が変わるとも思っていなかった。
山本、おまえは何でもできて器用だな。本当にそつがないな――周囲からはそう思われていたし、自分でもそうだと信じ込んでしまって疑いもしなくなった頃。
ひとつの出会いがあった。
何か月もかけて、ゆっくりと……ようやく世界は動き出す。
そして一年ほど時が過ぎ――
力づくの蹂躙ではなかった。武器は小さな指、小さなくちびる。大きな目……硬くなりかけていた殻は破壊され、もう一度生まれた彼の上には春の陽が注がれていた。
「ああ、もうっ!」
たまらないと言いたげに、彼女は叫んだ。
「あたしこんなの嫌いなのに、もうやだあ……また怪我するよ、絶対」
「いいから、さっさと手を動かせって」
いるかはため息をつき、仕方なさそうにまた作業に戻る。
とにかくどんな物体になろうと、課題は仕上げなくてはいけない。図画工作の類は苦手な彼女にとって、手芸も裁縫も鬼門でしかないのだ。
里見学習院からの帰り道、何度も針で指を突いた、という話を聞いて春海はそのまま彼女を自宅に連れていった。
彼の監視の下、いるかはぎこちなく針を動かしているという次第だったのだ。
「ゆっくりでいいんだから、急ぐなよ。針先をちゃんと見て――あのな、俺を見てどうすんだ、おまえ……ああ、それじゃだめだ。ちょっと貸してみろ」
彼女から布と針を受け取って、春海はすいすいと針を動かしていく。
いるかは心底、感嘆したように彼の手元を見つめた。
「春海、すごいねえ……お裁縫までそんな上手にできるなんて」
「ユニフォームとか、たまにほつれて縫うからな。それに、ボタンだって取れたりするだろ」
「藍おばさんに頼まないの?」
「そりゃ頼めばやってくれるだろうけど、自分でする方が早い」
春海はそう答えながら縫い続け、ふと顔を上げた。
いるかが盛大に肩を落としていたのだ。
「……なんか落ち込むなあ。タクマは裁縫が得意だし、春海も……あたし女だけど不器用だから、生まれつき器用な人にはかなわない」
「おまえの場合、最初っから諦めてるのがいちばん問題なんだよ。――ほら、続き」
「あたしのと縫い目まで違う……春海の方がきれいだあ」
また、大きなため息。
「……」
春海は何も言わず立ち上がり、いるかの背後へと移動した。そして、後ろから彼女の右手を取って、針を押さえる。
「こうやって」
左手では布を持ち、いるかによく理解できるように同じ姿勢で説明する。
「待ち針で指突くのが怖いんだろ? そういう時は……こんな感じで……そうそう。しっかり持って」
「こう?」
振り向きたくても、密接しすぎて振り向けない――針を持ちながらよそ見をする訳にはいかないので――いるかが、縫いながら呟く。
「こんな感じ?」
「そうそう、さっきより縫い目が細かくなった。まっすぐだし」
「ほんと? じゃあ、さっさと縫っちゃおう……」
早速の成果に、いるかは嬉しそうに作業に没頭する。いつまでもこんな態勢は不自然だと思いながらも、春海は彼女を後ろから見つめていた。
――寄りかかってくれたらいいのに。
抱きかかえさせてくれたらいいのに。こんな状況でもまったく疑問に思っていない彼女の様子があまりにあどけなくて、彼は結局、動けない。
「……こんなの、玉子たちに言ったら呆れられるだろうな」
手は動かし続けながら、いるかが笑った。
「春海に手取り足取り、お裁縫を教わりました。なんてさあ」
「……」
それはちょっと人聞きの悪い、と春海は心中こっそり呟く。
確かに、手は取っているのだが……
「まあ、いいけどさ。あたしがすっごく不器用で……春海は何でもできて器用だってこと、もうみんな知ってるもんね」
「……俺、器用か?」
「器用じゃん! 春海が器用じゃなかったら、いったい誰が器用なんだって話になるよ……」
叫ぶようにいるかが言う。
それっきり、彼女は針の終着点を目指して黙り込んでしまった。
何でもできて、そつがなくて、優等生で退屈だった数年前。
そして今――
思い通りにならないのはもどかしいけれど、それでもいい。思い通りでなくていい――勢いを増す一方で途切れることのない感情を、相手に知ってほしいだけ。
何ひとつ力を持たず待ち焦がれるだけの自分など、あの頃には想像しようもなかった。
万能、という言葉の何と脆弱なことだろう!
そんな脆い世界に属する人間でなくてよかったと、彼は思う。
彼女の前にいる時は、器用でいたくない。
どうせ器用ではいられない。
「できた! やっとできた!」
ほうっと、安堵の声が聞こえてきて春海は我に返る。
いるかが、何とか形になった小さなサイズのバッグを手にしていた。
「ほら、やりゃあできるんじゃないか。提出は明後日か……間に合ったな」
「ありがと! でも――これ見て、見て。最後の方はちょっとましになったけど……あたしと春海の縫い目の違い、はっきり分かっちゃう。ほんと、春海って何やっても器用なんだね。うらやましい」
(おまえはさ、何も分かっちゃいないんだよ)
不器用な彼は、針と糸から解放された彼女との距離を少しだけ縮める。
(他のことが何でもできるからって、これだけは……)
首を傾げながらも安心したように寄りかかってくる彼女を抱きとめ、その甘くはかない重さを春海は噛みしめるように味わった。
*****
時系列としては、高1の秋(家出前)ぐらいかな。
春海が実は家事も人並み以上にできて、簡単な料理なんかはちゃっちゃと手際良く作ってしまう(そしているかが落ち込む)……というネタもあるんですけど、それはまた気が向いた時に。
文中では説明できませんでしたが、徹と藍おばさんは留守です。
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