[33回]
「まあ、春海ぼっちゃま。何か良いことでもありました?」
――帰宅した途端、そう言われた。徹にも同じことを聞かれた。
心当たりがあるだけに、ぐっと眉をつり上げていつもの顔を作る。これじゃいけない……おれは今、いったいどんな間抜けな顔つきをしているんだろう。
これではいけない、気を引き締めなければ。
「春海、おまえ……何かいいことでもあったのか?」
――春休みに突入した学校内ではなく、子供の頃から通っていた剣道場で一馬が尋ねてくる。
一馬だけじゃない、進も兵衛も同じことを聞きたそうな顔をしている。
腹が立つことに、おれが答える前に進が何事かを一馬に耳打ちし、一馬も兵衛も勝手に――何事かを――納得したようで、たちの良いとは言い難い笑みでおれを見つめるのだ。
防具があるっていうのに、表情を隠せていないのだろうか?
これではいけない。――そりゃ、こいつらには隠すようなことは何もない。あんな大立ち回りを共にしてくれた親友たちに隠すことなんて何ひとつないさ。
だけど。
だけどな、すべてを丁寧に説明する必要もないだろ?
終業式の帰り道……少しだけあいつと……進展しました。おまえらのおかげです、どうもありがとう――なんて言う必要はないじゃないか!
これじゃいけない。いつもの顔を取り戻さなければ。
「春海、おはよう! どうしたの、なんか学校の用事?」
――用事がなきゃ来ちゃいけないのかよ。
休み中なんだから学校じゃ会えないんだぞ。用事なんかある訳ねえだろ、ろくに仕事もしない会長のくせに。
理由なんかない、まともな理由なんか思いつけない。
「ね、お茶飲んでって」
「いや、別に用事がある訳じゃないし……」
「用事がなくてもいいじゃん」
「……顔を見るの、終業式以来だし……」
そう呟いて、おれは目の前の女をじっと見つめた。無邪気な笑い顔が一瞬で真っ赤に染まっていく……
「そ……そうだっけ。そうだよね、うん、そうだった……」
微妙に視線を逸らして、いるかは何度も繰り返した。もともと高い声が完全にひっくり返ってしまっている。
……何と言うか、面白いよな。毎日見ていても飽きない。
「……お茶、飲んでっていいか?」
「う、うん!」
ほっとしたように、いるかが玄関の戸を引いた。
「それじゃ、お邪魔します」
「どうぞどうぞ。あたしの淹れるお茶だけど」
おれを見て、いるかは照れたように笑った。おれも笑った。
そうだよな……おまえの前でだけは、ちょっとぐらい気の抜けた顔をしててもいいよな。
えらそうに自慢することでもないけど、さんざん泣かせたあとにやっと――やっと、触れることができたんだ。
地に足がついてない感じがしたって……おかしいことじゃないよな?
学校が始まれば、ついに三年生になって……
どうせまた会長が二人ってことになるんだろうけど、いるかとどうにかなったからと言って公私混同するつもりはないぞ。まったくない。
厳しい山本会長のまま、変わることはないさ。
だから、今は。
今は、まるで踊るような気持ちとでも言えばいいのだろうか……とてもじゃないけど、じっとしていられないんだ。
今から思えば滑稽なことだけど、自分はもっと醒めた男だと思ってた。
特別な女を前にして心が揺れるなんてこと、想像もしてなかったんだ。
おまえを特別だと思うようになるなんて……
少なくとも去年の今頃は、予想不可能なことだった。もしも去年の自分に会えるなら、今、この春に生きてるおれが予言してやりたいぜ。笑いながら。
その暴れ猫みたいな小さな女が、いつかおまえをぶち壊すんだよ……って。
「!」
後ろから手を取った。靴を脱ごうとしていたいるかが、振り返った。
「ど、どしたの……」
「握手」
「な、なんで?……うん、握手、握手ね」
手を握り合って、また照れ笑いをするおれといるか。
今のおれはさぞ、どうしようもない顔をしているんだろうと思いつつ……それでもいいじゃないか、当たり前じゃないかと開き直ってみる。
自分でも持て余している、上ずって浮かれた心を……この、走り出したい気持ちをどうにかして伝えられたら……
おまえだけに、こっそり伝えられたら――
つないだ手から伝わっていればいいと思う。
はじめてだから、いつものように冷静な顔をして対処なんかできない。
何もかもがはじめてで、おまえがまぶしいから。
十五年になろうとしている人生で、はじめて知った思いなのだから。
*****
なんとなく、一人称を原作通り「おれ」にしたい気分でした。