[12回]
「おい、春海」
十三歳になったばかりの少年が、その声に振り返る。
「ああ、おまえらも終わったか?」
「初日終わり。俺らもついに中学生だなあ」
新学期を迎えた中学一年生。本来ならまだ制服姿も様にならず、子供のあどけなさがどうしても残る時期である。
しかし、帰りの通学路で言葉を交わす四人の少年からは年齢相応の可愛げがほとんど伺えず、どちらかと言うと「ふてぶてしい」ほどに堂々としているのだった。
まず第一に、彼らは先月まで小学生だったとは思えないほど背が高く、背筋もぴんと伸びて凛々しく──武道の町であったので──声変わりも既に終わっていたらしいからだ。
「じろじろ見られた」
春海、と呼ばれた少年が口もとを歪めた。
「誰にだよ?」
「入学式からずっと、だけどな。行きの道でも、昇降口でも……先輩とやらに。ああ、あれが山本の長男かっていう目で」
「ああ……」
友人たちは顔を見合わせた。
「入学前から有名だもんなあ、おまえは」
四人の中で飛び抜けて背が高く、体格の良い少年が悪気のまったくなさそうな声で言った。顔つきは古風で純朴だが、妙に老成してもいた。
「家のこともあるけど、野球の方でもさ」
「だよなあ。名門校のスカウトが、目の色変えて追いかけ回してる山本春海。そりゃあ、修学院の野球部は狙ってるだろ。なあ、進」
髪の長い少年が、もう一人の友人に同意を求める。古風な顔立ちをした群れの中で、その『進』と呼ばれた彼は端正ながらも比較的柔和で、甘い容貌に見えた。
「そうだな。中学受験で修学院に上がったからって、他の高校スカウトはまだ諦めてねえだろうしなあ」
「他人事みたいに言うよな。進も一馬も兵衛も、全員目をつけられてるくせに」
群れの中心人物であるらしい『春海』なる少年の反論に、他の三人はにやっと笑うのであった──やはり、先月までランドセルを背負っていたはずの小学生だったとは思えない。
「やっぱり、掛け持ちなんて生意気かな。そういう奴もいない訳じゃないってのは、もう聞いたけど」
進の言葉に、長髪の少年が頷いた。
「入部届は陸上オリンピックの後でいいだろ。とりあえず、あれが終わらないとさ」
「余裕あるなあ、一馬」
「余裕?」
どうやらこちらは、一馬という名らしい。
「なんでだよ?」
「だって、おまえ。陸上五輪が終わってからなら……最後まで生き残ったらの話だけどさ……掛け持ちに文句言う奴はいない、ってことだろ?」
「まさか。そこまで自惚れてないって」
「まあ、数字上では十分割り込む余地はあるけど──」
自分は発言せず、黙って彼らの言葉を聞きながら歩いていた『春海』が、道の曲がり角で振り返った。
「じゃあな。俺はここで」
「なあ。まだ早いし、俺ん家寄っていかない?」
一馬が提案するが、春海は首を振った。
「悪い。徹も今日が小学校初日だろ。話、聞いてやらないと。また明日な」
「ああ、そうか。そうだな」
「また明日な、春海!」
三人の声に、少年はまた振り向いて笑ってみせた。外見はともかく、年齢相応の笑顔だった。
春海が去ったあと、三人はしばらく黙り込んでいた。
やがて、
「──徹、もう小学生なんだよなあ」
「うん……」
「去年はまだ幼稚園だったよな」
「うん」
「……春海、もう平気だって顔してるけどさ……」
「……」
「親父さん、相変わらず忙しいんだなあ……春海と徹、どっちの入学式にも来られなかったみたいだし」
「……」
古く小さな城下町が、花に埋もれる季節。
初春の午後だった。
あらゆる草木の命が芽生えていた。山本家の広い庭では、緑の濃淡だけでも様々で鮮やかだ。
時折、強い風に散らされる気の毒な花びらが緑の絨毯を彩っている。
都会からの訪問者であれば、何と風情のあることかと感心されそうな縁側も、この倉鹿の町では特に珍しいものではない。
「ただいま。徹……?」
居間に姿が見えないので、兄は呼びかけつつ縁側へ出る。
果たして、予想通り弟はそこにいた。
「おかえり、おにいちゃん」
「ああ」
「おばさんね、今お買い物に行ってる」
「そうか。腹減ってないか?」
「学校すぐ終わったから、おひるはもうたべたよ。おばさん、おやつ買ってきてくれるって」
「じゃあ、帰ってくるまで待とうな。──学校、どうだった? 友だちは出来たか? 担任の先生は、どんな……優しそうか?」
山本徹は、まだまだ幼児のあどけなさを残した小学一年生で──新一年生だった──兄の春海と共に、この家に暮らしている。
大きな家に、ほとんど兄弟二人きりの生活になってからほぼ一年。本来なら両親が揃って四月初めの次男の入学式に付き添い、今日も初登校日だからと祝いのご馳走が食卓に並んでもおかしくない日なのだ。
「クラスは1組だったよな。山本、って名前が最後だった?」
「うん。ぼくがいちばんさいごだった」
「ランドセルはどうだった。重かったか?」
「ううん」
徹の目は、兄ではなく庭に向かっていた。そうと知って縁側に並んで座り、兄は弟の頭をそっと撫でた。
「天気、いいな」
「うん。お花がきれいだね」
「花見……行きたいか?」
「おはなみ? おべんとう持って?」
「うん、まあな──今年は……」
お母さんの作るお重のようには行かないけれど、と言いかけて、春海は口をつぐんだ。
「おはなみ……きょねん、おかあさんと見に行ったねえ……」
「……」
午後の風に、桜が軽やかに舞う。
空は青く眩しいのに、光を感じない。暖かいのに温度を感じない。美しいのに、美しい季節だとは思えない……
母を亡くして初めて迎える春。
兄弟は、同じような表情で虚空を見つめていた。
「──まあまあ、春海ぼっちゃまもお帰りだったんですね。お腹がお空きでしょう? お待たせしましたね」
帰宅した家政婦の藍おばさんが、慌てた様子で縁側に顔を出す。
「徹ぼっちゃまはお昼は済みましたから、おやつはもう少し後ですね、春海ぼっちゃま、用意はできていますから」
「うん、食べるよ。ありがとう」
「今日はお二人とも新学年最初の日ですから、ご馳走にしましょうね」
「……ありがとう、おばさん」
春海は縁側から立ち上がり、居間に入って親切な婦人に頭を下げた。十三歳にして彼は、身長では既に彼女を追い越していたのだが。
「気を遣わせて、ごめん」
「まあ、とんでもない……」
「徹の好きなもの、たくさん作ってやってくれるかな」
「ええ、勿論ですよ」
「──何を考えてるんだろう、あの人は」
「……」
藍おばさんが、困ったように首を傾げた。春海の指す人物が誰なのか、すぐ分かったのだろう。
「春海ぼっちゃま、旦那様は……」
「……ごめん、おばさんに言うつもりじゃなかったんだ。考えても仕方ない、どうでもいいよ。小学校の入学式にも来ない親父のことなんか」
「……」
「あ──もう、十二時過ぎてる。腹減ったよ、俺。昼ご飯は何?」
春海が少し笑いながら──作り笑いではあったが──話題を変えると、藍おばさんはほっとしたように「オムライスと、コーンスープですよ」と返事をして台所へ向かう。それについて行こうとして、兄は縁側を振り返る。
小さな弟は、春の午後にいったい何を見ているのだろう。もういない誰かを見ているに違いない……兄である自分のように。彼はそう確信する。
春は、何処へ行ったのだろう?
あの時から、母がいなくなった日から、季節がどう移ろうと自分は──自分たちだけが除け者にされ続けている。
呆然自失の時期を越えた今だからこそ、余計に重く感じるのだろうか……
いつかは、それでも、心から笑顔になれる日が戻って来るのだろうか?
花を愛しむ春はどこへ行った。
万物が目覚める季節はどこへ行った。
自分の生まれた春は、何処へ消えてしまったのか?──と言っても、何があろうと『その日』は毎年巡ってくる。優しい婦人の気遣いで、一週間ほど前にも盛大な祝いの食卓を囲んだばかりだ。
泣き喚いても母は戻らない、それだけが容赦のない事実だった。
倉鹿の町の名家であり、父は代議士──文字通りの名士である。山本と言えばこの町では、余程の新参者以外は名を知っているだろう。だから今日、長男である彼は修学院で上級生たちの注目を集めたのだ。
何ひとつ不自由のない暮らしの中で、欠けたものがあまりにも大きい。そして今後、絶対にその空虚が埋まることはないのだ……
喧噪の中では辛うじて忘れていられる、と悟った少年は、前にもまして武道に、野球にと励むようになった。当然、勉学にもだ。けれど、地元の名門校、私立倉鹿修学院中等部に当然のように合格した今春、制服姿を見て目を細めてくれるはずの人はいない。
何か、大事な感覚を失ったような。
このまま五月になり六月になり──夏が来て秋に変わり、長い冬のあと、また新しい春が花と光を運んでくるだろう。地上の無数の人々、その中の一人に何があろうと世界は変わらないし時間は止まらず過ぎて行く。
人はいつか、そのことに気づく。一生気づかずに終わる者はいないのだ。
ただ──人生で避けられぬ別れとは言え、わずか六歳で母を失った弟に掛ける言葉が見つからないのだ。
「徹、あとで外に……散歩に行こうか?」
「……」
弟からの返事はない。相変わらず縁側で足を揺らせながら庭を見ているだけで、泣いてはいない。──笑顔でもなかったが。
兄は小さく息をつき、台所へ入っていった。
◇
倉鹿修学院の生徒会選抜は一風変わったものだった。
倉鹿道場を祖とするスポーツ名門校として名を馳せるだけに、徹底的な実力主義なのだ。上級生だから、下級生だからと区別はなされない。実力さえあれば、新一年生であっても生徒会会長を狙うことが可能だった。
しかしそこは、文武両道を校是とする名門校。スポーツ「だけ」では全校生徒に受け入れられない。選抜方法としての学力試験は課されないが──校内の陸上五輪での成績、それが全てだった──腕に覚えのある生徒たちは入学早々、勉強でも一歩抜きん出ようとして励むのであった。
四月初旬。
修学院の放課後は、男女関係なく自主トレーニングをする猛者たちの騒々しい声、気合を入れる雄叫び、砂を蹴る音などで活気と殺気に満ちていた。
そんな中、堂々とした姿かたちだけで「この間まで小学生だったくせに、余裕がありやがる」と二年生、三年生たちに悪態をつかれる集団があった。言わずと知れた、山本春海を中心とする四人のことだった。
「あの女の偉そうな態度と口のきき方──何なんだ。あれも三月までは小学生だったって、嘘だろ」
なぜか潜めた声で噂される人物もいた。春海は雪組、進は星組、一馬と兵衛は竹組なので月組の彼女とは直接関わりはなかったが──これもまた、先月まで小学生だったのかと疑いたくなるような容貌を持つ少女だった。容貌だけでなく態度も若干──かなり人と違っていて、端的に言えば『ワル』あるいは『スケ番』などと称される類らしかった。
他の生徒たちは彼女のことを、ひそかに「お銀」と呼んでいた。その出雲谷銀子の隣にはいつも友人がいて、見事に同類なのか態度も口のきき方も大差ない。その伊勢杏子は友人よりも目つきが鋭く、そして寡黙だった。
鹿鳴会、と特別な名で呼ばれる生徒会選抜についても、友人との会話で「冗談じゃない、あたしは生徒会長を目指すなんてご免だね」と呟いていたという証言がある。
自分に関係のない事柄には、春海は無関心を貫いた。件の少女たちと廊下ですれ違っても、彼は反応を示さなかった。
「ふん。あれが噂の山本春海……良い家のお坊ちゃま。お頭の硬い優等生、って感じだね」
「……」
とりあえず感想を述べる銀子と、無言の杏子。──残響の残る中、廊下を行く春海は口もとを歪ませるだけだった。
悪態をいちいち真に受けるのは愚かなことだったが、彼は「さすがは山本さんの……」という相手の口ぶりや感心も一切無視した。
──山本春海という俺の中身の、いったい何を知っているんだろう?
彼は、そう思うのだ。
例外は一人だけ存在したが、それも入学式の一瞬だけの邂逅だった。新入生代表として、初めて院長と交わした言葉。
「山本くん、修学院によく来てくれた。君も、もう中学生か」
「はい」
「我が校での活躍を、楽しみにしておるよ。部活はもう決めているかね?」
「はい、ある程度は……新学期が始まってから、改めて考えます」
「──確か弟御も、今年が小学校入学だったかの。兄弟揃って、門出の春じゃな」
「……」
院長は微笑んで、春海の肩を何度か──励ますように──叩いてその場を去った。
なぜか、院長に対して春海の反抗心は起こらなかった。何もかも承知で、門出だと敢えて口にしてくれたような気さえする。
如月上野介──剣道を嗜む者なら誰もが知る老剣士。この倉鹿修学院の院長で、地元の名士中の名士と言っていい。春海はほとんど憶えてはいなかったが、院長は母の葬儀にも参列したはずである。
すべてを承知で、それでも老人は「門出じゃな」と言った。
生きろ、と背を押された気がしたのだ。
実の父親には何か月も会っていない。教訓めいたことや、今後のことについて何かを諭されたこともない。母がいなければ、父にとって家族とはその程度のものなのか。
考えても、どれほど考えても分からない。
なぜ、あんなふうに奪われなければならなかったのか。
父は今も、苦しみ続けているいるのかもしれない──と思う。だからこそ倉鹿に帰って来られず、現実と向き合うこともできないのかもしれないと……
それも今は、自分の想像でしかない。父の本心は分からない。
山本家の春は、どこへ行ったのだろう?
「いよいよ明日だな。春海、調子どう?」
「悪くはないよ。おまえらも、いつもと同じだろ?」
「まあね」
「二年生がやたら睨んで来るんだよなあ。まあ、俺ら全員がサッカーやら野球やら剣道やら、大会優勝者なら仕方もねえか……」
「そう言えば、あの出雲谷銀子。小学校の時は口聞いたこともないけど、外ではよく顔見たよな。子分引き連れてるのを……え? 兵衛はよく知ってんのか? そうでもないって、何だそりゃ。──まあとにかく、あんまり良い話聞かないな。あれも相当自信あるらしいぜ」
「面白いじゃん、それって。女子との決戦! なあ春海」
「そうかな。……相手が誰でも、俺はどうでもいいけど……」
春海はすぐに補足した。
「だって、決勝の相手だろ。女より、おまえらの可能性の方が高い」
進と一馬は、こっそりと顔を見合わせた。
友人たちの目に映る春海は、話題によって微妙に変化した。
生気がない訳ではないが会話を続けづらい時がある。あまりの無関心さに、怯むことさえある。それでも彼らは春海とつきあいが長いだけあって、しかも現在は特殊な時期──いつまで続くのかは誰にも分かりはしないが、傷の癒えるはずのない時間──だということを承知していたので、彼らなりの距離感で友人を見守っていた。
「──それじゃあ、また明日。頑張ろうぜ」
「今日は、早く寝ちまおうっと」
「それはいつもだろ、一馬」
まだ明るい春の夕方、四人は手を振って別れた。
今日は珍しく、春海だけが途中で足を止めた。
彼は声もなく振り返った。
三人の友人たちは、家族の待つ家に帰って行く。
自分には──弟がいる。徹が待っている、それで十分ではないか。
これから先も、あの大きな広い家には二人だけ。
春海は顔を伏せた。何かが胸に込み上げてきたのだろうか? 少年は歯を食い縛って、熱いものを止めることに成功したようだ。
弟の前では泣けない。
家では泣けない──では、何処でなら、彼は泣くことを許されるのだろう?
桜は緑に色を移し、陽はますます青く高くなり、いつしか夏の気配を漂わせることだろう。季節に置き去りにされたまま、少年は生きていく。
よろこびを心から感じられないまま。
「……? 徹、か?」
家の少し前で、春海は目を細めて窺った。少し薄暗くなってきた中で、家の前で──恐らく、兄を待つ──寂しげに佇む弟の姿を見たのだ。
「あ、おかえり! おにいちゃん!」
徹が駆け寄ってくる。
「暗くなってきたのに、一人で外に出ちゃ駄目だぞ。どうしたんだ?」
「だって、このごろ、おにいちゃんは特訓だって帰りがおそいし。いつ帰ってくるのかなあって」
「……」
春海は徹をそっと抱きしめ、髪を撫でた。
「ちゃんと帰ってくるよ。ごめんな、明日大きな大会があるから、今日まで忙しかったんだ。……ほら、家に入ろう」
「うん」
「学校、今日はどうだった? 勉強で分からないことがあったら、兄ちゃんに言えよ。すぐ教えるからな」
「うん。うん」
徹は、春海の手をぎゅうっと握った。弟の力の意外なまでの強さに、隠したばかりの熱いものが再び蘇ってくるのを兄は感じていた。
縋りつくものが、幼い弟にとっては自分以外にいないのだろう……
「さあ、徹。おいで」
「うん、おにいちゃん」
「……もう、桜も本当に終わりなんだな……」
それを惜しいとは思わない。こんな春が一生続くのだとすれば、生まれた季節がいっそ冬なら良かったのに。
「まあ、まあ。春海ぼっちゃまをお迎えに? 徹ぼっちゃま、びっくりしましたよ。お部屋にいらっしゃらないから──さあ、夕飯にしましょう」
玄関で藍おばさんが待っていてくれた。
兄と弟は手を繋いで、互いの温もりだけを灯にするように家の中へ向かった。
to be continued.